聖明王(聖王)

重要度
★★

聖明王(聖王) (せいめいおう / せいおう)

?〜554年

【概説】
6世紀中頃に在位した、朝鮮半島・百済(くだら)の第26代王。高句麗や新羅の圧迫に対抗するため、倭国(ヤマト政権)との同盟強化を図り、日本へ公式に仏教を伝えた人物。内政面では都を泗沘へ遷して国家の再興に努めたが、新羅との戦いに敗れて非業の死を遂げた。

百済の「中興の祖」としての内政改革

聖明王(在位523〜554年)は、5世紀後半に高句麗の侵攻を受けて衰退していた百済の再興に心血を注いだ。538年、都を従来の熊津(ゆうしん)から、平野が広がり交通の便が良い泗沘(しび、現在の扶余)へと遷都した。同時に、国号を百済のルーツとされる「扶余」にちなんで「南扶余」と改め、官制や地方行政制度を整えて中央集権化を強力に推進した。

また、仏教を国家統合の精神的支柱として重んじ、中国の梁(りょう)南朝から進んだ制度や学術、仏教文化を積極的に導入した。このような治績から、後世において「聖明王」あるいは「聖王」と称されることとなった。

倭国との軍事同盟と「仏教公伝」

当時の朝鮮半島は、高句麗の南下圧力に加え、急速に台頭する新羅との間で緊張が高まっていた。この四面楚歌の状況を打破するため、聖明王は倭国(欽明天皇朝)との間に強固な同盟関係を築くことを目指した。聖明王は倭国から軍事的な援助(兵力や武器の支援)を引き出すための外交カードとして、百済が保有する先進的な知識や技術を惜しみなく提供した。その最大の契機となったのが仏教の伝来(仏教公伝)である。

聖明王は、使者として達率(官位名)の怒唎斯致契(ぬりしちけい)らを倭国に派遣し、釈迦仏の金銅像や経論、仏具などを贈った。これをもって日本に公式に仏教が伝わった。日本における公伝の年については、戊午(ぼご)説(538年)壬申(じんしん)説(552年)の2説があるが、いずれも聖明王の治世下に重なっている。仏教の伝達は、単なる宗教の布教にとどまらず、最先端の学問や建築技術、官僚制度などを伴う体系的な「国家近代化パッケージ」の提示であり、倭国の支配層に大きな衝撃を与えた。

領土奪還の失敗と管山城の戦いでの悲劇

聖明王は、倭国からの軍事支援を受けつつ、加耶(任那)諸国との連携を模索し、さらに新羅と結ぶことで、551年までに高句麗から念願であった漢江(かんこう)流域の旧領を一時的に奪還することに成功した。しかし、かつての同盟国であった新羅の真興王(しんこうおう)の裏切りに遭い、百済が奪還したばかりの漢江下流地域を急襲され、新羅に奪われてしまう。

激怒した聖明王は新羅への報復を決意し、554年、自国軍に加えて加耶や倭国からの支援軍を動員して新羅領へ侵攻した。百済連合軍は序盤こそ優勢に進めたものの、管山城(かんざんじょう)の戦いにおいて、前線で孤立した息子(のちの威徳王)を激励に向かう途中、聖明王自身が新羅の伏兵に急襲されて捕らえられ、斬首されるという悲劇的な最期を遂げた。王を失った百済軍は壊滅し、この大敗によって百済の主導権は失われ、加耶(任那)地域における倭国の足がかりも急速に失われていくこととなった。

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