欽明天皇 (きんめいてんのう)
【概説】
古墳時代後期(6世紀中頃)に在位した、実在が確実視される第29代天皇。
百済の聖明王から仏教が伝来した際、その受容をめぐって群臣に諮問し、後の崇仏・廃仏論争の契機を作った。また、緊迫する朝鮮半島情勢に対応し、「任那(加羅)」の復興を目指す外交政策を展開するなど、ヤマト政権の権力構造と対外関係の双方において大きな転換期を導いた大王(おおきみ)である。
仏教公伝と「崇仏・廃仏論争」の勃発
欽明天皇の治世における最も重要な出来事が、百済の聖明王(聖王)による仏教公伝である。仏教の伝来時期については、公式の歴史書である『日本書紀』の552年(壬申説)と、寺院の伝承などを記録した『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』の538年(戊午説)の2つの説があり、現在では538年説が有力視されている。
百済から釈迦仏の金銅像や経論が献上された際、欽明天皇はこれを礼拝すべきか否かを群臣に諮問した。これに対し、渡来人系氏族と深く結びつき、先進文化の受容に積極的であった大臣(おおおみ)の蘇我稲目は「西方の国々はみなこれを礼拝しており、我が国も従うべきだ」として崇仏を主張した。一方で、古来の神事を掌る大連(おおむらじ)の物部尾輿や中臣鎌子は「我が国の国神の怒りを買う」として強く反対し、廃仏を主張した。欽明天皇は稲目に仏像を与えて私的な礼拝を認めたものの、後に疫病が流行すると物部氏らによって寺院や仏像が破棄された。この論争は単なる宗教対立にとどまらず、ヤマト政権内における蘇我氏と物部氏による主導権争い(氏族闘争)へと発展していくこととなる。
朝鮮半島情勢の緊迫と「任那」の滅亡
欽明天皇の治世は、東アジアの国際情勢が激動した時期でもあった。朝鮮半島では新羅が急速に台頭し、百済を脅かすとともに、ヤマト政権が伝統的に権益を有していた半島南部の任那(加羅・加耶)諸国への侵攻を進めていた。
欽明天皇は百済と同盟を強固にし、軍事的な支援を送ることで任那の維持・復興を図った。しかし、新羅の進出を止めることはできず、562年に任那の日本府(割譲地や拠点)を含む全域が新羅によって滅ぼされた。これにより、ヤマト政権は半島における外交・軍事的な足がかりを完全に失うこととなった。欽明天皇はこの「任那滅亡」に深い衝撃を受け、崩御の直前にも次代の敏達天皇らに対して「任那を復興し、百済を救うこと」を強く遺言(遺詔)したと伝えられている。この対外的な危機感は、国内における政治的団結を促し、国造制の整備など中央集権化の動きを加速させる契機となった。
王統の確立と蘇我氏との結びつき
歴史的に見て、欽明天皇は現在の皇室へと繋がる直系の祖にあたる人物である。前代の継体天皇によって新たな王朝の流れが作られたものの、その後の王位継承をめぐっては分裂期(安閑・宣化の系統と、欽明の系統による二朝並立説など)があったとする研究もある。しかし、欽明天皇の即位によって王権の統合と安定がもたらされた。
また、欽明天皇は蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)や小姉君(お姉君)を妃に迎え、多くの皇子女をもうけた。この中から、のちの用明天皇、崇峻天皇、そして日本初の女帝となる推古天皇が誕生している。この婚姻関係こそが、蘇我氏が天皇の「外戚」として絶対的な権力を掌握する基盤となり、次代の飛鳥時代(蘇我馬子や聖徳太子の時代)の幕開けを用意することとなったのである。