米内光政内閣

日独伊三国同盟に反対する姿勢をとったため、畑俊六陸軍大臣が単独辞任して後任を出さないという陸軍の工作により、総辞職に追い込まれた内閣は誰の内閣か?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
米内内閣(Wikipedia)

米内光政内閣 (よないみつまさないかく)

1940年

【概説】
阿部信行内閣の後を受けて1940年1月に成立した、海軍大将の米内光政を首相とする内閣。日独伊三国同盟の締結に慎重な姿勢をとったため、同盟推進を主張する陸軍の倒閣運動によって、わずか半年余りで総辞職に追い込まれた。

1. 成立の背景と親英米派としての米内光政

1940年(昭和15年)1月、外交・経済政策の行き詰まりから退陣した阿部信行内閣のあとを受け、昭和天皇の強い信頼を得ていた海軍大将の米内光政が組閣した。当時は日中戦争(支那事変)の長期化により米英との関係が悪化しており、昭和天皇は英米との協調を重視し、軍部の暴走を抑えられる人物として米内を強く望んだとされる。

米内は、戦前の近衛文麿内閣や平沼騏一郎内閣で海軍大臣を務めていた際、海軍次官の山本五十六、軍務局長の井上成美とともに「海軍三羽烏(トリオ)」と称され、英米との決定的な対立を招く「日独伊三国同盟」の結成に強硬に反対し続けた経歴を持っていた。首相就任後もこの姿勢を堅持し、親英米的な外交方針のもとで戦争の回避と事態の収拾を模索した。

2. 欧州戦局の激変と「バスに乗り遅れるな」の熱狂

しかし、米内内閣の命運を分けたのは、1940年春に勃発したヨーロッパ戦線の急変であった。ナチス・ドイツがフランスやオランダなど西欧諸国を次々と電撃戦で破り、イギリスを追い詰める事態となると、日本国内(特に陸軍や世論)ではドイツの圧倒的勝利を信じる風潮が急速に強まった。

この結果、国内では「バスに乗り遅れるな」というスローガンが流行し、ドイツと同盟を結んでアジアにおける旧宗主国(仏・蘭・英)の植民地(仏領インドシナ、蘭領東インドなど)に進出すべきであるとする「南進論」が台頭した。三国同盟への親近感が高まるなか、同盟締結に慎重な米内内閣の外交方針は、陸軍や親独派から「時代遅れの現状維持主義」として激しい批判を浴びることとなった。

3. 陸軍の倒閣運動と軍部大臣現役武官制の利用

日独伊三国同盟の早期締結を望む陸軍は、米内内閣を退陣させるため強硬手段に出た。1940年7月、陸軍大臣の畑俊六が単独で辞表を提出し、陸軍は後任の陸相を推薦しないという方針をとった。

これにより、制度上の規定である軍部大臣現役武官制(陸海軍大臣は現役の将官でなければならないという制度)が牙を剥くこととなった。陸相が不在となり、かつ後任の補充もできないため、米内内閣は憲法上の内閣統一を維持できなくなり、同年7月22日に総辞職を余儀なくされた。この陸軍による事実上のクーデター的倒閣により、米内内閣はわずか半年の短命に終わった。

米内内閣の退陣後、第2次近衛文麿内閣が成立すると、陸軍の主導によって同年9月に日独伊三国同盟が締結され、日本は太平洋戦争への破滅的な道を突き進むこととなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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