米内光政

海相時代に山本五十六らとともに日独伊三国同盟の締結に猛反対し、のちに首相を務め、終戦工作の際にも海相として大きな役割を果たした人物は誰か?
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重要度
★★

【参考リンク】
米内光政(Wikipedia)

米内光政 (よないみつまさ)

1880年〜1948年

【概説】
昭和期の海軍軍人、政治家。海軍大臣として日独伊三国同盟の締結に強く反対し、後に内閣総理大臣を務めたほか、太平洋戦争末期には鈴木貫太郎内閣の海相としてポツダム宣言受諾による終戦工作に尽力した人物。

「海軍三羽烏」としての三国同盟反対闘争

米内光政は、海軍次官の山本五十六、軍務局長の井上成美とともに「海軍三羽烏(あるいは条約派・良識派)」と称され、昭和戦前期の過激な対外膨張路線に抵抗した代表的な人物である。1937年に林銑十郎内閣で海軍大臣に就任して以来、第1次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣でも留任した。この時期、陸軍や革新官僚を中心に日独伊防共協定を軍事同盟へと強化する動きが活発化したが、米内は英米との協調関係を重視する立場から、これに激しく反対した。右翼や陸軍からの暗殺の脅迫にさらされながらも、「海軍は英米との戦争を望まない」との姿勢を貫き、同盟締結を阻止し続けた。

米内内閣の組織と陸軍による倒閣

1940年1月、阿部信行内閣の退陣を受け、昭和天皇から絶大な信頼を寄せられていた米内が第37代内閣総理大臣に就任した。米内内閣は、泥沼化する日中戦争の解決と対米英関係の改善を模索した。しかし、欧州でナチス・ドイツがフランスを降伏させるなど破竹の勢いを見せると、国内では独伊との同盟締結を求める世論と陸軍の圧力が一気に高まった。また、近衛文麿を中心とする新体制運動(のちの大政翼賛会結成運動)に対しても米内は批判的であった。これに反発した陸軍は、陸相の畑俊六を辞任させ、後任の推薦を拒否するという手段(軍部大臣現役武官制の悪用)に出て、同年7月に米内内閣を総辞職に追い込んだ。この退陣により、日本は日独伊三国同盟の締結、そして太平洋戦争への道を突き進むこととなった。

太平洋戦争末期の和平・終戦工作への貢献

太平洋戦争の戦況が悪化した1944年、東条英機内閣が倒れると、小磯国昭内閣の海軍大臣として復帰した。続く鈴木貫太郎内閣でも海相を留任し、外相の東郷茂徳らとともに和平派の中心的役割を担った。米内は、本土決戦や「国体護持」に固執して戦争継続を主張する陸軍(阿南惟幾陸相ら)と激しく対立しながらも、昭和天皇の「聖断」を背景にポツダム宣言の受諾を強力に推し進めた。終戦直後の混乱期においても海相に留まり、軍部の暴走を防ぎつつ復員業務を指揮し、海軍の解体を見届けてから政界を退いた。日米開戦を回避しようと努め、最終的に破局から日本を救う終戦工作に命を懸けたその生涯は、近代日本史において高く評価されている。

海軍大将米内光政覚書 太平洋戦争終結の真相 (産経NF文庫)

太平洋戦争終結の裏側で米内光政がいかなる決断を下したのか、その深層を克明な記録と証言から浮き彫りにする歴史の一級資料。

米内光政と山本五十六は愚将だった: 「海軍善玉論」の虚妄を糺す

海軍善玉論の虚妄を徹底的に突き、当時の指導者たちの無能と責任を厳しく断罪することで、太平洋戦争の真実を炙り出す衝撃の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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