第2次近衛文麿内閣

1940年に組閣され、国内では大政翼賛会を結成し、外交では日独伊三国同盟を締結した内閣は誰の内閣か?
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★★★

第2次近衛文麿内閣 (だいにじこのえふみまろないかく)

1940年〜1941年

【概説】
1940(昭和15)年7月に成立し、新体制運動のもとで大政翼賛会を結成するとともに、日独伊三国同盟を締結した内閣。ヨーロッパでの第二次世界大戦の激化を背景に国内のファシズム的再編を推し進め、日本を太平洋戦争へと向かわせる決定的な針路を形作った。

組閣の背景と「新体制運動」

第1次内閣を総辞職したのちも、近衛文麿は国民的な人気と名門の威光から次期首相として強く期待されていた。1940年に入り、ヨーロッパ戦線でナチス・ドイツが破竹の進撃を続けると、国内では「バスに乗り遅れるな」という機運が高まり、親英米派と見られていた米内光政内閣を陸軍が倒閣した。これを受けて、同年7月に第2次近衛文麿内閣が成立した。近衛は組閣に先立ち「基本国策要綱」を決定し、「国防国家体制」の建設を掲げた。これは、泥沼化する日中戦争を打開し、激動する国際情勢に対応するため、政治・経済・文化のあらゆる分野を国家の統制下に置く新体制運動を推進するものであった。

大政翼賛会の結成と国民統制の完成

新体制運動の具体的な中核となったのが、1940年10月に結成された大政翼賛会である。近衛の構想の下、立憲民政党や立憲政友会などの既存の政党は次々と自発的に解散し、全議員が合流する一国一党的な政治結社が誕生した。もっとも、大政翼賛会は一部の急進派が目指した強力な指導政党にはならず、内務省の官僚機構を通じた上意下達の行政補助機関としての性格を強めていった。同時に、労働組合を解散させて大日本産業報国会を組織したほか、地域社会においては町内会や部落会、その下部組織としての隣組を制度化し、国民の日常生活の隅々にまで国家の統制と監視が行き渡る絶対的な総力戦体制が構築された。

日独伊三国同盟と「四国連合」構想

外交面では、外務大臣に起用された松岡洋右の主導により、急進的な政策転換が行われた。1940年9月、日本はドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を締結し、枢軸国陣営に本格的に参加した。これは、圧倒的な軍事力を示すドイツと結ぶことでアメリカを牽制し、日中戦争の解決(蔣介石政権への援助ルート遮断など)を図る狙いがあった。さらに松岡は、これにソ連を加えた「ユーラシア大陸四国連合」によってアメリカに対抗する壮大な構想を描き、1941年4月にはモスクワで日ソ中立条約を締結した。しかし、同年6月に独ソ戦が勃発したことでこの構想は根本から崩壊し、かえってアメリカやイギリスとの対立を決定的なものにしてしまった。

南進政策の推進と内閣の瓦解

第2次近衛内閣は、軍需資源の獲得を目的とする「南進政策」も推進し、1940年9月には北部仏印進駐(フランス領インドシナ北部への軍事進駐)を強行した。これに対し、アメリカは屑鉄や航空機用燃料の対日禁輸措置を発動するなど経済制裁を強化し、日米関係は危機的状況に陥った。事態を重く見た近衛は1941年4月から日米交渉を開始し関係修復を模索したが、三国同盟に固執する松岡外相がアメリカに対する強硬姿勢を崩さず、激しい閣内不一致が露呈した。最終的に近衛は、日米交渉の障害となった松岡を平和裏に更迭するため、1941年7月に内閣総辞職という奇策をとり、松岡を外した上で直ちに第3次近衛文麿内閣を組閣することになる。このように、第2次近衛内閣の約1年間は、日本の政治体制を根底から作り変え、対米英開戦という修復不可能な対外路線を敷いた歴史的な転換期であった。

近衛新体制 (中公新書 709)

昭和史の転換点を鮮明に映し出し、国家の構造的変容と破局への予兆を解き明かす、歴史研究の金字塔となる一冊。

太平洋戦争への道 4 新装版: 開戦外交史

日米開戦に至る外交交渉の深層を克明に検証し、指導者の迷走と泥沼化した対外政策の隘路を暴き出す重厚な書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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