麻生久 (あそうひさし)
【概説】
大正から昭和初期にかけて活動した日本の社会運動家、政治家。東京帝国大学在学中に学生社会運動の先駆けである「新人会」の結成に参加し、のちに無産政党の指導者として労働運動や社会主義運動を牽引した人物である。
新人会の結成と初期の労働運動
麻生久は大分県に生まれ、東京帝国大学法学部に進学した。在学中、吉野作造が唱えた民本主義に強い影響を受け、1918(大正7)年に赤松克麿や三輪寿壮らとともに学生社会運動団体である新人会を組織した。この新人会は、大正デモクラシー期における知識人や学生による社会変革運動の揺籃となり、多くの社会運動家を輩出することとなる。
大学卒業後、麻生は読売新聞記者を経て労働運動の第一線に身を投じた。日本労働総同盟(総同盟)の幹部として数々の労働争議を指導し、労働者の地位向上と社会主義思想の普及に努めた。1925(大正14)年に普通選挙法が制定されると、労働者や農民の政治的権利を獲得するための無産政党結成の動きが本格化し、麻生はその中心的な役割を担うこととなった。
無産政党の再編と軍部への接近
大正後期から昭和初期にかけて、無産政党は左右のイデオロギー対立から分裂を繰り返したが、麻生は中間派(日労系)の指導者として、常に大同団結を模索し続けた。1932(昭和7)年、満洲事変の勃発による国家主義的台頭のなか、主要な無産政党が合同して社会大衆党が結成されると、麻生は実質的な指導者である書記長に就任した(中央執行委員長は安部磯雄)。
社会大衆党は反ファシズムと反資本主義を掲げて勢力を伸ばし、1937(昭和12)年の第20回衆議院議員総選挙では37議席を獲得して大躍進を遂げた。しかし、麻生は既成政党や財閥が主導する現状を打破するため、軍部(特に国家革新を掲げる陸軍の統制派)との提携を模索するようになる。いわゆる「軍・労提携」の路線を推進した麻生は、日中戦争の勃発以降、戦争を「東亜解放」の契機として肯定的に捉え、急速に国家総力戦体制への協力へと傾斜していった。1940(昭和15)年、近衛文麿が進める新体制運動(大政翼賛運動)に合流するため社会大衆党を解党したが、大政翼賛会の発足を目前に控えた同年に急逝した。彼の足跡は、大正期の民主主義・社会主義運動が、昭和期の軍国主義や全体主義へと回収されていく歴史的過程を象徴している。