東大新人会(新人会) (とうだいしんじんかい)
【概説】
大正デモクラシー期に東京帝国大学(現・東京大学)の学生らによって結成された、日本を代表する先駆的な学生思想団体。吉野作造の学問的指導のもとで民本主義の普及を目指して出発し、のちに労働運動や社会主義運動へと傾斜した。大正から昭和初期にかけての社会運動に、指導者となる多くの人材を供給したことで知られる。
結成の背景と吉野作造の影響
1918年(大正7年)は、第一次世界大戦の終結に伴う国際的な民主主義の潮流や、国内における米騒動の勃発など、日本の社会構造が激変した年であった。こうした民衆のエネルギーの爆発に衝撃を受けた東京帝国大学の学生、麻生久、赤松克麿、宮崎龍介らは、新たな時代の社会改造を目指して、同年12月に「新人会」を結成した。
結成において思想的支柱となったのが、東京帝国大学法科大学の教授であり、民本主義を提唱していた吉野作造である。吉野が主宰する「黎明会」などとも連携しながら、新人会は当初、知識人学生の啓蒙団体としてスタートした。彼らは機関誌『デモクラシー』(のちに『改造』『先駆』と改題)を発刊し、学内の学問にとどまらず、広く社会の不条理を是正するための言論活動を展開していった。
「民衆の中へ」:実践的な労働運動・社会運動への接近
東大新人会の最大の特徴は、単なる知的議論の場にとどまらず、「民衆の中へ」というスローガンのもと、実際の労働運動や農民運動に身を投じた点にある。学生たちは、鈴木文治が率いた友愛会(のちの日本労働総同盟)の活動に接近し、労働学校の講師を務めたり、労働争議の支援を行ったりした。足尾銅山や釜石鉱山などの炭鉱・工場地帯へ直接赴き、肉体労働者と寝食を共にする「現場主義」の実践は、その後の学生運動の原点となった。
この実践活動を通じて、初期の穏健な人道主義や民本主義は、労働者の過酷な現実を目の当たりにすることで、より直接的かつ急進的な社会主義・マルクス主義へと急速にシフトしていくこととなった。
左傾化の進行と弾圧による解散、その歴史的遺産
1920年代に入ると、ロシア革命の影響やマルクス主義の台頭、さらには1922年の日本共産党(第一次)結成などを経て、新人会の思想的左傾化は決定的なものとなった。学内でもマルクス主義を研究する「社会科学研究会(社研)」が各大学に組織され、新人会はその中核として、全国の学生運動をリードする存在となった。
しかし、こうした急進化は国家権力による厳しい弾圧を招くこととなった。1925年の治安維持法制定、そして1928年の三・一五事件による共産党関係者の大量検挙は、新人会にも壊滅的な打撃を与えた。内部での思想的対立や、活動方針をめぐる分裂も重なり、1929年(昭和4年)に新人会は正式に解散を余儀なくされた。
活動期間は約10年余りであったが、東大新人会が日本近代史に与えた影響は極めて大きい。ここから巣立ったメンバーは、無産政党の指導者となった麻生久や赤松克麿、共産主義運動を主導した佐野学や野坂参三、さらには戦後の労働運動や言論界、学術界のリーダーなど多岐にわたり、昭和期の日本の政治・社会運動の骨格を形成することとなった。