東大新人会(新人会)

1918年、吉野作造の影響を受けた麻生久や赤松克麿ら東京帝国大学の学生が結成した、大正期の学生運動・社会主義運動の先駆的団体は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
新人会(Wikipedia)

東大新人会(新人会) (とうだいしんじんかい)

1918〜1929年

【概説】
大正デモクラシー期に東京帝国大学(現・東京大学)の学生らによって結成された、日本を代表する先駆的な学生思想団体。吉野作造の学問的指導のもとで民本主義の普及を目指して出発し、のちに労働運動や社会主義運動へと傾斜した。大正から昭和初期にかけての社会運動に、指導者となる多くの人材を供給したことで知られる。

結成の背景と吉野作造の影響

1918年(大正7年)は、第一次世界大戦の終結に伴う国際的な民主主義の潮流や、国内における米騒動の勃発など、日本の社会構造が激変した年であった。こうした民衆のエネルギーの爆発に衝撃を受けた東京帝国大学の学生、麻生久赤松克麿宮崎龍介らは、新たな時代の社会改造を目指して、同年12月に「新人会」を結成した。

結成において思想的支柱となったのが、東京帝国大学法科大学の教授であり、民本主義を提唱していた吉野作造である。吉野が主宰する「黎明会」などとも連携しながら、新人会は当初、知識人学生の啓蒙団体としてスタートした。彼らは機関誌『デモクラシー』(のちに『改造』『先駆』と改題)を発刊し、学内の学問にとどまらず、広く社会の不条理を是正するための言論活動を展開していった。

「民衆の中へ」:実践的な労働運動・社会運動への接近

東大新人会の最大の特徴は、単なる知的議論の場にとどまらず、「民衆の中へ」というスローガンのもと、実際の労働運動や農民運動に身を投じた点にある。学生たちは、鈴木文治が率いた友愛会(のちの日本労働総同盟)の活動に接近し、労働学校の講師を務めたり、労働争議の支援を行ったりした。足尾銅山や釜石鉱山などの炭鉱・工場地帯へ直接赴き、肉体労働者と寝食を共にする「現場主義」の実践は、その後の学生運動の原点となった。

この実践活動を通じて、初期の穏健な人道主義や民本主義は、労働者の過酷な現実を目の当たりにすることで、より直接的かつ急進的な社会主義・マルクス主義へと急速にシフトしていくこととなった。

左傾化の進行と弾圧による解散、その歴史的遺産

1920年代に入ると、ロシア革命の影響やマルクス主義の台頭、さらには1922年の日本共産党(第一次)結成などを経て、新人会の思想的左傾化は決定的なものとなった。学内でもマルクス主義を研究する「社会科学研究会(社研)」が各大学に組織され、新人会はその中核として、全国の学生運動をリードする存在となった。

しかし、こうした急進化は国家権力による厳しい弾圧を招くこととなった。1925年の治安維持法制定、そして1928年の三・一五事件による共産党関係者の大量検挙は、新人会にも壊滅的な打撃を与えた。内部での思想的対立や、活動方針をめぐる分裂も重なり、1929年(昭和4年)に新人会は正式に解散を余儀なくされた。

活動期間は約10年余りであったが、東大新人会が日本近代史に与えた影響は極めて大きい。ここから巣立ったメンバーは、無産政党の指導者となった麻生久や赤松克麿、共産主義運動を主導した佐野学や野坂参三、さらには戦後の労働運動や言論界、学術界のリーダーなど多岐にわたり、昭和期の日本の政治・社会運動の骨格を形成することとなった。

憲政の本義 – 吉野作造デモクラシー論集 (中公文庫 よ 56-1)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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