第3次近衛文麿内閣 (だいさんじこのえふみまろないかく)
【概説】
日米交渉を妥結に導くため、強硬派の松岡洋右外相を更迭する目的で組閣された近衛文麿による3度目の内閣。南部仏印進駐を契機とするアメリカの対日石油全面禁輸によって国家的な窮地に追い込まれ、最終的に対米開戦を主張する東條英機陸相との対立を収拾できずに総辞職に至った。
松岡外相の更迭と組閣の背景
前政権である第2次近衛文麿内閣において、日独伊三国同盟や日ソ中立条約の締結を主導した松岡洋右外務大臣は、アメリカに対して強硬な態度を崩さず、難航していた日米交渉における最大の障害となっていた。1941年(昭和16年)6月に独ソ戦が勃発すると、松岡は同盟国ドイツに呼応してソ連を挟撃する「北進論」を強硬に主張し、日米交渉の継続を望む近衛首相や軍部首脳との対立が決定的となった。
近衛首相は日米交渉を円滑に進めるために松岡を罷免しようとしたが、松岡が自発的な辞任を拒否した。そのため、近衛は内閣を一度総辞職するという異例の手段をとった。そして直後に再び組閣の大命を受け、松岡を外して海軍出身の豊田貞次郎を新外相に据える形で第3次近衛文麿内閣を1941年7月18日に発足させたのである。
南部仏印進駐とABCD包囲陣の完成
日米交渉の障害を取り除いたはずの近衛内閣であったが、皮肉にも組閣直後に致命的な外交的失策を犯すことになる。7月28日、日本軍は南進政策の一環として南部仏印進駐(フランス領インドシナ南部への武力進駐)を実行した。これはアメリカをはじめとする連合国側から見れば、資源地帯であるオランダ領東インド(現在のインドネシア)への侵攻に向けた足場固め以外の何物でもなかった。
この行動に激怒したアメリカは、即座に在米日本資産の凍結を発表し、さらに8月には対日石油輸出の全面禁輸という強力な経済制裁を発動した。当時、石油の大部分をアメリカに依存していた日本の国家運営と軍事行動は深刻な危機に陥った。これにより、アメリカ・イギリス・中国・オランダが連携して日本を経済的に封じ込める「ABCD包囲陣」が完全に形成されることとなった。
「帝国国策遂行要領」と開戦へのカウントダウン
石油備蓄の枯渇というタイムリミットが迫るなか、近衛首相はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領との直接会談(日米首脳会談)によって事態の打開を模索した。しかしアメリカ側は、事前の実務レベルでの合意がない限り首脳会談には応じないとして、これを事実上拒絶した。
外交的解決への道が閉ざされていく中、9月6日の御前会議において「帝国国策遂行要領」が決定された。ここでは「10月上旬までに外交交渉がまとまらなければ、対米英蘭開戦を決意する」という極めて重大な方針が示された。これは、形式上は外交交渉を継続しつつも、実質的には軍部に対して戦争準備の本格化を許可するものであり、日本は後戻りのできない対米開戦へのレールに乗ることとなった。
東條陸相との対立と内閣総辞職
設定された10月上旬の期限が到来しても、日米交渉に妥結の糸口は見えなかった。交渉における最大の焦点は中国大陸からの日本軍の撤兵問題であった。近衛首相は、名目上の駐兵権を残しつつ実質的に部隊を撤退させることでアメリカと妥協しようと試みたが、東條英機陸軍大臣は「無条件撤兵は数十万の英霊と遺族に対する裏切りであり、事変の成果を無にするものだ」と激しく反発し、強硬に開戦を主張した。
近衛は東條の説得を試みたものの完全に失敗し、深刻な閣内不一致を露呈した。自ら対米開戦の決断を下すことも、軍部を抑え込んで外交交渉を妥結させることもできなかった近衛は政権運営を行き詰まらせ、10月18日に政権を放り出す形で内閣総辞職へと追い込まれた。日中戦争勃発時から彼が抱え続けた優柔不断な政治姿勢の限界がここに極まり、後継として誕生した東條英機内閣によって、日本は太平洋戦争(大東亜戦争)への悲劇的な突入を迎えるのである。