佐野学 (さのまなぶ)
【概説】
大正から昭和初期にかけて活動した社会主義運動家、元日本共産党中央執行委員会委員長。1933年に獄中から鍋山貞親とともに「共同被告同志に告ぐる書」を発表し、共産主義思想からの転向を表明した人物。この声明は、当時の社会主義運動に壊滅的な打撃を与え、知識人や運動家に大量の「転向」を巻き起こす契機となった。
日本共産党の結成と指導者としての活動
佐野学は山形県の地主の家に生まれ、東京帝国大学を卒業後に早稲田大学教授などを務めながら社会主義運動に身を投じた。1922年の日本共産党(第一次共産党)の結成に創設メンバーとして参加し、党の理論的・実践的指導者として頭角を現した。
一時、政府の弾圧を避けてソ連へ亡命したが、帰国後の1928年に再建された第二次日本共産党の委員長(中央執行委員会委員長)に就任。しかし、同年の三・一五事件や翌1929年の四・一六事件によって政府による治安維持法を用いた大検挙が行われ、党組織は壊滅状態に陥る。佐野自身も1929年に上海で検挙され、国内へ送還のうえ投獄された。
「佐野・鍋山転向声明」とその思想的論理
1933年(昭和8年)6月、獄中にあった佐野は、同じく党幹部であった鍋山貞親(なべやまさだちか)と連名で「共同被告同志に告ぐる書」を発表した。これが日本近代史上、極めて大きな画期となった「佐野・鍋山転向声明」である。
この声明において彼らは、モスクワのコミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)が日本の歴史的国情(天皇制など)を無視して一律的な指導を行っていると強く批判した。そして、天皇を戴く皇室中心の民族的主体性を肯定し、そのもとでの社会主義改革をめざす「一国社会主義」を提唱。従来の暴力革命路線や反戦の立場を放棄し、満洲事変に始まる日本の軍事的進出を「民族解放の戦い」として事実上支持する姿勢を鮮明にした。
「転向」の時代と治安維持法運用の変化
最高指導者であった佐野・鍋山の転向表明は、獄内外の党員や左翼的な知識人たちに計り知れない衝撃を与え、思想的拠り所を失わせた。これを機に、多くの活動家が雪崩を打つように共産主義からの「転向」を誓うこととなり、組織的な左翼運動は事実上崩壊へと向かった。
また、この事件は国の思想統制・治安政策にも大きな影響を及ぼした。司法当局は、治安維持法の運用を「厳しい処罰」から「思想転向を促し、保護監察によって体制内に包摂する」方向へと本格的にシフトさせた。佐野自身は1944年に出獄し、戦後は右派の社会主義運動に携わったが、戦前の「転向」の代名詞的象徴として、その政治的・思想的決断は日本の昭和史に深い傷跡を残すこととなった。