転向 (てんこう)
【概説】
1930年代の日本において、社会主義者や共産主義者が国家の弾圧や思想的葛藤により、それまでの革新的・反体制的な主義主張を放棄した現象。特に1933年の日本共産党幹部による転向表明を契機に、多くの運動家が国家体制の容認や戦争支持へと方針を転換した。大正デモクラシー以降の社会運動を壊滅に追い込み、戦時下の国家総動員体制の構築を思想的に決定づけた歴史的事象である。
「佐野・鍋山転向声明」と集団転向の波
1925年に制定された治安維持法は、1928年の三・一五事件や翌年の四・一六事件を経て、最高刑に死刑を追加するなど厳罰化が進められ、日本共産党に対する徹底的な弾圧が行われた。こうした極限状態の中、1933年6月、獄中にあった共産党最高幹部の佐野学と鍋山貞朝が「共同被告共同表明」を発表した。
彼らは、コミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)の指導を否定し、一国社会主義の立場から天皇制(国体)を支持し、満洲事変を是認する方針を打ち出した。この指導者による「転向」の衝撃は凄まじく、獄中や公判中の共産党運動家、さらには一般の社会主義者たちにまでドミノ倒しのような集団転向を引き起こした。これにより、組織としての日本共産党は実質的に壊滅へと向かうこととなった。
制度化された「転向」と家族的包摂
日本の「転向」政策の特徴は、単に暴力的な拷問や処罰を行うだけでなく、特高警察や司法官らが受刑者の家族(親や配偶者)を利用して感情的に説得し、「天皇の赤子」としての日本人に回帰させるという、独自の心理的・精神的なアプローチをとった点にある。
この方針は、1936年に制定された思想犯保護観察法によって制度化された。転向した者に対しては、刑の執行猶予や釈放を認め、さらに社会復帰を支援・監視するための保護司制度が整備された。国家は彼らを単なる排除の対象とするのではなく、家族主義的な国家秩序の中へと「包摂」し、皇国臣民としての統合を図った。この巧妙なシステムにより、治安維持法下の思想犯の大部分が、非転向を貫けずに転向を余意なくされた。
転向文学の誕生と戦時体制への同調
自らの強固な信念や正義を否定し、国家権力に屈した知識人や文学者たちの精神的苦悩は深く、これが戦前期の日本文学における「転向文学」という独自の潮流を生み出した。中野重治の『歌のわかれ』や、島木健作の『生活の探求』などは、自己の妥協に対する苛烈な葛藤や罪悪感を描き、同時代の知識人に強い共感を呼んだ。
歴史的観点から見れば、社会主義や自由主義などの革新的な抵抗拠点が「転向」によって内側から自壊したことは、その後の戦争遂行における挙国一致体制や、近衛文麿が進めた新体制運動(大政翼賛会など)への知識人・大衆の合流を劇的に容易にした。かつての左翼知識人の多くが、国家の枠組みの中で大東亜共栄圏の論理形成などに積極的に加担するようになり、戦時下の思想統制をさらに強固なものにしたのである。