大東亜共栄圏 (だいとうあきょうえいけん)
【概説】
日本を盟主とし、欧米の植民地支配を打倒してアジアに自立した広域経済・政治圏を築くという構想。昭和期における日本の対外膨張政策を正当化するイデオロギーとして提唱され、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)を推進するための最大の戦争目的として掲げられた。
「東亜新秩序」から「大東亜共栄圏」への発展
1938年、第一次近衛文麿内閣は日中戦争の長期化を受け、日本・満州国・中国(日満支)の政治的・経済的結合を目指す「東亜新秩序」の建設を声明した。これが大東亜共栄圏構想の直接的なルーツである。その後、1939年の第二次世界大戦勃発と1940年のナチス・ドイツによる西ヨーロッパ席巻を機に、東南アジアの欧米植民地(フランス領インドシナ、オランダ領東インド、イギリス領マラヤなど)が権力の空白地帯となった。これを見た日本は、資源確保のための「南進政策」を本格化させていく。
1940年7月、第二次近衛内閣は「基本国策要綱」を決定し、「日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序」の建設を国是とした。そして同年8月、外相の松岡洋右が記者会見において初めて「大東亜共栄圏」という言葉を公式に用いた。これにより、従来の「日満支」の枠組みから、東南アジアなどの「南方圏」にまで対象地域を大幅に拡大した広域ブロック構想が成立することとなった。
構想のイデオロギーと地政学的背景
大東亜共栄圏の思想的根拠には、日本書紀に由来する「八紘一宇(はっこういちう)」(世界を一つの家とする)というスローガンが用いられた。これは、天皇を家長とする家族国家観をアジア全体に拡大適用したものであり、形式上は各民族の共存共栄を謳いながらも、実質的には日本を頂点・盟主とする厳格なヒエラルキー(階層秩序)を前提としていた。
また、地政学的・経済的な背景として、当時の世界経済がイギリスのスターリング・ブロックやアメリカのドル・ブロックといった排他的な経済圏(ブロック経済)に分割されていたことが挙げられる。アメリカによる日米通商航海条約の破棄や、いわゆるABCD包囲陣による経済制裁に直面した日本は、欧米への経済的依存から脱却し、自給自足の経済圏を確立する必要に迫られていた。したがって、大東亜共栄圏構想は「欧米の植民地支配からのアジア解放」という大義名分を掲げつつも、実態としては石油やゴム、ボーキサイトなどの軍需資源を獲得するための生存圏構想であった。
大東亜会議の開催と「アジア解放」の論理
太平洋戦争が激化し、日本の戦局が次第に悪化し始めた1943年11月、東條英機内閣は東京で大東亜会議を開催した。この会議には、南京国民政府(汪兆銘政権)、満州国、タイ、フィリピン、ビルマの代表に加え、自由インド仮政府のチャンドラ・ボースがオブザーバーとして参加した(当時日本の植民地であった朝鮮や台湾からの参加は認められなかった)。
会議では、欧米の帝国主義を批判し、大東亜各国の自主独立と互恵平等を謳う「大東亜共同宣言」が採択された。日本は、連合国の「大西洋憲章」に対抗する形でこの宣言を広く宣伝し、戦争の性格を「人種戦争」や「アジア解放戦争」として意義付けようと試みた。
共栄圏の実態と歴史的影響
しかし、大東亜共栄圏の理念と現実との間には著しい乖離があった。日本の占領下におかれた東南アジア各地では、軍政が敷かれ、軍需資源の過酷な収奪や現地住民の強制労働(泰緬鉄道の建設など)が行われた。さらに、日本語の強要や神社参拝の強制といった皇民化政策も進められ、現地住民の反発を招いた。その結果、各地で抗日ゲリラ運動が激化することとなった。
1945年8月の日本の敗戦により、大東亜共栄圏構想は完全に崩壊した。ただし、日本軍の進駐によって欧米の植民地体制が一時的に打破されたことや、現地住民に対する軍事訓練(インドネシアのPETAなど)が行われたことは、戦後のアジア諸国における独立運動に心理的・物理的な影響を与えた側面もある。大東亜共栄圏は、自国の生存と膨張の論理を「アジアの解放」という普遍的理念に仮託した近代日本特有の帝国主義的構想として、歴史的に評価されている。