重要度
★★★

420年 – 479年

【概説】
東晋の滅亡後、5世紀の中国江南地方に成立した南朝最初の王朝。日本史においては、古墳時代中期のヤマト王権を主導した「倭の五王」が度々使者を派遣し、冊封を受けたことで知られる。日本の古代国家形成期における東アジアの国際関係や、当時の国内情勢を知る上で極めて重要な存在である。

江南に成立した南朝最初の王朝

は、420年に東晋の武将であった劉裕(武帝)が恭帝から禅譲を受けて建国した中国の王朝である。後に10世紀に成立する統一王朝の宋(趙宋)などと区別するため、歴史学上は建国者の姓をとって劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。建康(現在の南京市)を都とし、江南地方を支配した。

当時の中国大陸は、華北を北方騎馬民の北魏が統一して「北朝」を形成し、江南の「南朝」と対立する南北朝時代の只中にあった。南朝では宋に続いて斉・梁・陳という王朝が興亡を繰り返すが、宋はその最初の王朝であり、南朝の中では最大版図を誇った。周辺諸国は、強大な北魏の圧迫に対抗するため、あるいは自国の国際的地位を高めるために、こぞって宋に朝貢して冊封体制に組み込まれる道を選んだ。

『宋書』倭国伝と「倭の五王」

日本史の文脈において、この宋は5世紀のヤマト王権の動向を知るための最も重要な鍵となる。当時の日本には文字による同時代史料が存在しないが、宋の歴史書である『宋書』倭国伝には、421年から478年にかけて、「倭の五王」と呼ばれる倭国の君主たちが相次いで宋に遣使した記録が残されているからである。

五王はそれぞれ讃・珍・済・興・武と記されており、彼らは『古事記』や『日本書紀』に登場する15代応神天皇から21代雄略天皇のいずれかに比定されている。特に、478年に遣使した「武」(雄略天皇に比定)が宋の順帝に奉った上表文は有名である。そこには、倭王が祖先の代から東や西、海の北(朝鮮半島)を平定してきたという自負と、高句麗の妨害によって宋への朝貢が阻まれているという訴えが生々しく記されている。

倭国が宋へ朝貢した外交的背景

倭の五王が海を越えて危険な航海を企て、度々宋へ使者を送った最大の目的は、朝鮮半島における外交的・軍事的な優位性を確保することにあった。当時、朝鮮半島北部から満州にかけて強大な勢力を誇った高句麗が南下政策をとっており、倭国はこれと激しく対立していた。

倭国は、強国である高句麗に対抗するため、中国の南朝である宋という権威を利用しようとしたのである。宋の皇帝から「安東大将軍」や「倭国王」、さらに「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」といった高い称号(官爵)を与えられることは、朝鮮半島南部に対する軍事的指揮権や政治的優越性を国際的に承認されることを意味していた。同時に、この中国皇帝からの権威は、ヤマト王権が国内の有力豪族を統制し、王権の絶対化を図る上でも大いに利用された。

宋の滅亡と東アジア情勢の変容

外交的に大きな意義を持った宋との関係であったが、宋国内では王族の激しい内紛が続き、479年に蕭道成が順帝から禅譲を受けて南斉を建国したことで、宋はわずか60年足らずで滅亡した。倭国はその後も南斉や続く梁に対して遣使を行ったが、5世紀末から6世紀に入ると、朝鮮半島における百済や新羅の勢力伸張、さらには磐井の乱(527年)など国内情勢の不安定化もあり、中国王朝への直接的な朝貢は次第に途絶えていくことになる。

次に日本が中国大陸の王朝に対して公式な外交使節を派遣するのは、およそ1世紀後の推古天皇の時代、すなわち600年および607年の遣隋使の派遣を待たねばならない。したがって、宋に対する遣使と冊封の時代は、古代日本が中華帝国の権威を借りて東アジア世界に自らを位置づけようとした、特徴的かつ重要な外交の画期であったと評価できる。

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