任那日本府 (みまなにほんふ)
【概説】
『日本書紀』などの文献に登場する、倭(ヤマト政権)が朝鮮半島南部の任那(加耶)に置いたとされる統治・外交機関。かつては倭国による朝鮮半島支配の拠点と解釈されたが、現在では実態について大幅な見直しが進められている。
『日本書紀』の記述と「植民地」観の否定
『日本書紀』の「雄略紀」「継体紀」「欽明紀」などには、倭国が任那に「日本府」を置いて外交や軍事を差配していたかのような記述が存在する。近代の歴史学(特に戦前)において、これは日本が4世紀から6世紀にかけて朝鮮半島南部を領有・支配していた根拠(「任那日本府説」)とみなされ、軍事的な総督府のような性格として理解されることが多かった。しかし戦後、考古学的な発掘調査の進展や東アジア規模での国際情勢の分析が進むにつれ、当時の倭国が朝鮮半島において一方的な領土支配権を確立していたとは考えにくいとされるようになった。現在では、かつてのような「植民地的支配機関」という見解はほぼ完全に否定されている。
現代学説における実態と国号の「潤色」
現代の歴史学および日韓共同研究においては、「任那日本府」の実態は、倭国から派遣された使節や、現地に割拠した倭系(日本列島出身)の豪族、あるいは百済などの周辺国に仕えていた倭人系官僚などが、加耶(任那)地域の国々と倭国との外交・交易の仲介、利害調整のために現地で設けた活動拠点(合議機関)であったと考えられている。また、史料上の決定的な問題として、5〜6世紀の時点では「日本」という国号は存在せず(「日本」の国号成立は7世紀末〜8世紀初頭とされる)、当時の出先機関が「日本府」と自称・呼称されていたわけではない。この名称自体は、後代に『日本書紀』が編纂された際、過去の倭国の対外的地位を誇示・美化するために、当時の用語を用いて「潤色(書き換え)」されたものであると考えられている。当時の実態は、現地における外交交渉の使節、あるいはその館(みこともち)のようなものであった可能性が高い。