第4次吉田茂内閣
【概説】
サンフランシスコ平和条約発効による日本の主権回復後、1952年(昭和27年)のいわゆる「抜き打ち解散」による総選挙を経て成立した自由党単独内閣。保安庁の発足など実質的な再軍備が進む一方で、公職追放を解除された鳩山一郎らと吉田茂との党内抗争が激化し、国会での失言を機とした「バカヤロー解散」で短命に終わるという、極めて不安定な政局に見舞われた政権である。
主権回復と「抜き打ち解散」
1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ平和条約が発効して日本は主権を回復し、GHQの占領は終結した。これに伴い、GHQによって政界から追放されていた戦前・戦中の有力政治家たちの公職追放が解除され、続々と政界への復帰を果たし始めた。
その筆頭が、かつて自由党の総裁であり、公職追放にあたって吉田茂に党の運営を託していた鳩山一郎であった。鳩山派は党の主導権を吉田から取り戻そうと画策したが、長期政権の維持を図る吉田はこれに強く反発した。鳩山派の選挙準備が整う前に機先を制するため、吉田は1952年8月、事前の通告なしに突如として衆議院を解散した。これが「抜き打ち解散」であり、直後の総選挙で自由党が過半数を維持したことで、同年10月に第4次吉田茂内閣が成立した。
保安庁の発足と再軍備問題
第4次内閣の時期は、冷戦下における日本の安全保障体制が新たな段階に入った時期でもあった。抜き打ち解散の直前である1952年8月には、朝鮮戦争を機に創設されていた警察予備隊が保安隊へと改編・強化され、同時に海上警備隊をも統括する保安庁が発足していた。
吉田内閣は、表向きは憲法第9条に基づく「戦力不保持」の建前を維持しながらも、アメリカの要請に応える形で段階的・実質的な再軍備(漸次増強)を進めていた。しかし、社会党などの革新勢力はこれを「憲法違反の再軍備」として激しく追及し、国会では安全保障と憲法解釈を巡る論争が政局の大きな火種となっていた。
党内抗争の激化と「バカヤロー解散」
抜き打ち解散によって鳩山派を牽制した吉田であったが、自由党内の派閥抗争(吉田派vs鳩山派)は収まるどころかますます激化し、第4次内閣の政権基盤は極めて不安定な状態にあった。
そのような中、1953年(昭和28年)2月の衆議院予算委員会において事件が起きる。社会党の西村栄一議員の執拗な質問に苛立った吉田首相が、席に着く際に思わず「バカヤロー」と呟いてしまったのである。これを野党が激しく非難して内閣不信任決議案を提出すると、党内の反主流派であった鳩山派などがこれに同調して賛成に回ったため、不信任案は可決されてしまった。
窮地に立たされた吉田は総辞職を拒否し、直ちに衆議院を解散して対抗した(バカヤロー解散)。これにより、第4次吉田内閣は成立からわずか7ヶ月足らずで幕を閉じることとなり、以後の日本政治は保守合同(55年体制)に至るまでの間、保守陣営の離合集散による激動の時代を迎えることとなる。