旅順包囲戦 (りょじゅんほういせん)
【概説】
日露戦争において、ロシア海軍の東洋進出拠点である旅順要塞をめぐり展開された陸上最大の攻囲戦。乃木希典大将率いる日本陸軍第3軍が、近代化されたロシアの永久要塞に対して凄惨な消耗戦を展開した。多大な犠牲を払った末の要塞攻略は、日露戦争全体の勝敗を決定づける極めて重要な分岐点となった。
旅順要塞の戦略的価値と攻略の背景
日露戦争の勃発に伴い、大本営および連合艦隊にとって最大の懸念は、旅順港に旅順艦隊(ロシア太平洋艦隊)が存在することであった。この艦隊を放置したままでは、ロシア本国から回航されるバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)と合流され、日本の海上の補給線(制海権)が完全に絶たれる危険性があった。
日本海軍は当初、港の入り口を沈没船で塞ぐ「旅順港閉塞作戦」を試みたが失敗に終わった。そのため、海軍側は陸軍に対して、陸上から旅順要塞を攻略し、港内のロシア艦隊を砲撃・壊滅させるよう強く要請した。これを受けて、乃木希典大将を司令官とする第3軍が新たに編成され、難攻不落と謳われた旅順要塞の攻略に挑むこととなった。
近代要塞の脅威と第3軍の苦闘
ロシア軍が築き上げた旅順要塞は、コンクリート(ベトン)で固められた強固な地下掩蔽壕(あんぺいごう)や、周囲に張り巡らされた高圧電流の鉄条網、そして近代兵器である機関銃を多数配備した、当時最新鋭の「永久要塞」であった。これに対し、日本軍は近代要塞の防御力を過小評価し、従来の歩兵による正面突撃(強襲戦術)を敢行した。
1904年8月の第1回総攻撃、10月の第2回総攻撃は、いずれもロシア軍の圧倒的な火力を前に悉く失敗し、日本軍は短期間で数万人規模の死傷者を出すという惨状を呈した。この苦戦は日本国内にも動揺を与え、乃木司令部への批判や、指揮官更迭を求める声が強まる事態となった。
203高地の死闘と要塞の陥落
事態を重く見た満州軍総参謀長・児玉源太郎らの介入もあり、日本軍は攻撃目標を要塞正面から、旅順港を一望できる観測拠点である203高地へと変更した。1904年11月末から開始された203高地をめぐる戦闘は、両軍が文字通り屍山血河を築く激戦となった。
同年12月5日、日本軍はついに203高地を占領。山頂に観測所を設置した第3軍は、内地から急送された28センチ榴弾砲などの重砲を用いて港内のロシア艦隊を正確に砲撃し、これをほぼ全滅させた。これにより旅順要塞はその戦略的意義を失い、翌1905年1月、ロシア軍の要塞司令官ステッセルは乃木に降伏を申し入れた。降伏後、両将軍が互いの健闘を称え合った「水師営の会見」は、後に美談として広く語り継がれることとなる。
戦後への影響と歴史的意義
旅順包囲戦の勝利は、日露戦争の局面を大きく変えた。旅順のロシア艦隊が消滅したことで、東郷平八郎率いる連合艦隊は背後の脅威から解放され、バルチック艦隊との決戦(日本海海戦)に向けて万全の準備を整えることが可能となった。また、旅順を攻略した第3軍はただちに北上し、日露陸戦の天王山となった奉天の会戦に合流して日本の勝利に大きく貢献した。
しかし、この勝利の代償は極めて大きく、日本軍の死傷者は約6万人に達した(乃木自身の2人の息子もこの戦いで戦死している)。旅順包囲戦は、近代兵器の登場がいかに凄惨な大量殺戮と消耗戦をもたらすかを、世界に先駆けて示した最初の近代戦であったと言える。