アジア・太平洋戦争
【概説】
1937年に勃発した日中戦争と、1941年に開戦した太平洋戦争(対米英蘭戦)を包括した戦争の総称。従来の呼称が持つ偏りを排し、日本の戦域や侵略の対象が中国大陸から東南アジア、太平洋の島々に至る広大な地域に及んでいた歴史的実態を踏まえ、近年用いられることの多い歴史概念である。
「アジア・太平洋戦争」という呼称の成立と歴史的意義
日本が1930年代から1945年にかけて行った戦争をどう呼称するかは、戦後長く議論の的となってきた。1941年12月の対米英開戦時、当時の東條英機内閣はこの戦争を日中戦争(支那事変)も含めて「大東亜戦争」と閣議決定した。しかし敗戦後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、この呼称が日本の軍国主義や「大東亜共栄圏」のイデオロギーと結びついているとして使用を禁じ、代わりに「太平洋戦争(Pacific War)」という用語を導入した。
しかし、「太平洋戦争」という呼称は、主に日米間の海戦や太平洋の島々での戦闘を想起させ、戦争の契機であり最大の陸上戦場でもあった中国大陸や、日本が占領支配した東南アジアという「アジアにおける戦争」の側面を不可視化してしまうという問題があった。また、1931年の満州事変からの一連の軍事的展開を連続したものと捉える「十五年戦争」という用語も提唱されたが、近年の歴史学界や教育現場では、日中戦争と対米英戦を不可分な一体の戦争として捉え、かつ戦場や被害の広がりをより正確に表現する「アジア・太平洋戦争」という呼称が一般化しつつある。
日中戦争の泥沼化と南進への道
この戦争の直接的な起点は、1937年7月に北京郊外で起きた盧溝橋事件に端を発する日中戦争である。日本は短期決戦での決着を目論んだが、蔣介石率いる国民政府は国共合作を成立させて徹底的な抗日戦を展開し、戦線は中国大陸の奥深くへと拡大・泥沼化していった。この事態に対処するため、日本国内では1938年に国家総動員法が制定され、国民の生活から経済活動までの一切を戦争遂行のために動員する総力戦体制が構築された。
長期化する日中戦争を打開するため、日本は蔣介石政権を背後から支援する英米など(いわゆる援蒋ルート)を遮断し、同時に戦争継続に不可欠な石油やゴムなどの戦略物資を東南アジアに求める南進政策へと傾斜していった。1940年には日独伊三国同盟を締結し、1940年の北部仏印進駐、翌1941年の南部仏印進駐を強行した結果、アメリカは対日石油禁輸などの経済制裁(ABCD包囲陣)を発動し、日米関係は後戻りのできない破局へと向かっていった。
太平洋戦争の開戦と「大東亜共栄圏」の実態
1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃するとともに英領マレー半島に上陸し、アメリカ・イギリスに対して宣戦布告した。ここに日中戦争は、東南アジアから太平洋全域を巻き込む巨大なアジア・太平洋戦争へと発展した。初期の作戦で日本軍は東南アジア各地の欧米植民地を次々と占領し、欧米の植民地支配からの解放とアジア人による共存共栄を謳う「大東亜共栄圏」の建設を大義名分として掲げた。
しかし、その実態は「欧米の帝国主義」が「日本の帝国主義」へとすげ替えられたに過ぎなかった。日本軍政下の東南アジアや中国では、苛酷な労働力動員や物資の供出、軍票の乱発による経済的混乱が引き起こされた。さらに、朝鮮半島や台湾などの植民地においては、皇民化政策の強化とともに、兵士や軍属、労働者としての強制的な動員が行われ、アジアの人々に甚大な被害と犠牲を強いることとなった。
戦争の破局と歴史的教訓
1942年6月のミッドウェー海戦での敗北を機に戦局は逆転し、日本は守勢に立たされた。圧倒的な工業力と物量を誇るアメリカ軍の反攻により、太平洋の島々で「玉砕」が相次ぎ、1944年のサイパン島陥落によって日本本土はB29爆撃機による激しい本土空襲の標的となった。さらに1945年春の沖縄戦、8月6日の広島、9日の長崎への原子爆弾投下、そして同日のソ連対日参戦という壊滅的な事態を経て、日本はついにポツダム宣言を受諾し、8月15日に敗戦を迎えた。
「アジア・太平洋戦争」という呼称を用いることは、単に名称の問題にとどまらず、日本が経験した空襲被害や原爆投下といった「被害」の側面だけでなく、アジア諸地域における軍事侵略や植民地支配という「加害」の側面を総合的に見つめ直す視点を提供するものである。三百数十万人と言われる日本人の犠牲に加え、数千万人に及ぶとされるアジアの犠牲者を出したこの総力戦の構造を理解することは、近現代史を学ぶ上で極めて重要な意義を持っている。