完顔阿骨打 (わんやんあくだ)
【概説】
中国東北地方の女真族を統一し、1115年に「金」を建国した初代皇帝(太祖)。圧倒的な軍事力で北方の大国・遼を追い詰め、東アジアの国際秩序を激変させた。日本においては平安時代末期の院政期にあたり、この金の台頭にともなう大陸情勢の地殻変動は、後の日宋貿易の進展や鎌倉時代の対外認識に大きな影響を与えた。
女真の統一と「金」の建国
11世紀末から12世紀初頭にかけて、現在の中国東北地方(満洲)では、ツングース系民族である女真(じょしん)族が、モンゴル系の遼(契丹)による過酷な支配下にあった。完顔(ワンヤン)部の首長となった完顔阿骨打は、卓越した軍事力と統率力をもって部族を統一。1114年に遼に対して反旗を翻し、圧倒的な動員力と騎馬戦術で遼の軍勢を次々と破った。
翌1115年、阿骨打は自ら皇帝に即位して国号を金(太祖)と定め、独自の文字である女真文字の創始に着手するなど、国家体制の整備を急速に進めた。さらに、遼を共通の敵とする中国の宋(北宋)と同盟(「海上の盟」)を結び、遼を南北から挟撃してその勢力を破竹の勢いで衰退させた。阿骨打自身は遼の完全な滅亡を見ることなく1123年に病没したが、彼が築いた軍事的・政治的基盤は、その後の金の急速な領土拡大の土台となった。
東アジアの勢力変動と日本への歴史的影響
完顔阿骨打による金の建国とそれに続く台頭は、日本(平安末期・院政期から鎌倉時代)の国際環境を大きく変容させた。阿骨打の死後、金は1125年に遼を滅ぼし、さらに1127年には同盟相手であった北宋をも滅ぼした(靖康の変)。これにより宋の皇族は南方に逃れて南宋を建国し、中国大陸は北の金、南の南宋という「南北対立」の時代を迎えることとなった。
日本側では、かつて1019年に女真族の海賊が九州を襲撃した刀伊の入寇の記憶が残っていたため、女真族が「金」として強大化したことに対して、朝廷や貴族の間で警戒感が高まった。しかし、金に圧迫された南宋が対外交易を求めたことは、日本にとっても大きな転機となった。特に平清盛ら平氏政権はこれに商機を見出し、日宋貿易を本格化させた。これにより多量の宋銭が日本に流入し、日本国内の貨幣経済化を強力に推し進めることとなった。完顔阿骨打に端を発する東アジアの国際秩序の変化は、日本の経済構造や、後の鎌倉文化の形成に間接的かつ決定的な影響を及ぼしたのである。