オゴデイ=ハン
【概説】
モンゴル帝国の創始者チンギス=ハンの第三子で、第2代大ハーン(皇帝)に即位した人物。金朝を滅ぼして華北を支配下に置き、さらにヨーロッパ遠征を敢行して帝国の領土をユーラシア規模へと急速に拡大させた。
モンゴル帝国の官僚制整備と首都カラコルムの建設
1227年に父チンギス=ハンが没すると、1229年のクリルタイ(部族長会議)において、温厚で調整能力に優れたオゴデイが第2代大ハーンに選出された。彼は帝国を維持・統治するため、それまでの遊牧国家的な緩やかな連合体から、中央集権的な国家体制への移行を推進した。
具体的には、オルホン川上流の地に首都となるカラコルムを建設し、宮殿や行政機関を整備した。また、広大な領土を結ぶ交通・通信網として、一定間隔ごとに駅を設けて馬や食料を常備する駅伝制(ジャムチ)を確立した。これにより、帝国全土での迅速な情報伝達と安全な通商路が確保され、後の「タタールの平和(パクス・モンゴリカ)」の基盤が築かれた。
領土の拡大と金朝の滅亡、ヨーロッパへの衝撃
オゴデイは、対外遠征においても大きな足跡を残した。東アジア方面では、1234年に南宋と結んで北方の強国であった金(女真族)を滅ぼし、華北の農耕地帯を領有することに成功した。これにより、定住民を統治するための税制の整備(耶律楚材の登用など)が必要となり、帝国の官僚体制化がさらに進むこととなった。
一方、西方に対しては、甥のバトゥを総司令官とする大規模なヨーロッパ遠征軍を派遣した。1241年、モンゴル軍はワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランドのキリスト教諸侯連合軍を撃破し、ヨーロッパ社会に「タタール(モンゴル)の恐怖」を植え付けた。同年末にオゴデイが急死したため、バトゥはハーンの後継問題に対処すべく撤退したが、この遠征はロシアにおける「タタールの軛(くびき)」の始まりとなった。
鎌倉時代の日本と東アジア情勢への影響
オゴデイがユーラシアを揺るがしていた時期、日本は鎌倉時代中期にあたり、第3代執権北条泰時のもとで「御成敗式目(貞永式目)」が制定(1232年)されるなど、武家政権の制度的安定期を迎えていた。この段階では、日本とモンゴル帝国との間に直接的な接触は生じていなかった。
しかし、オゴデイは1231年から朝鮮半島の高麗への侵攻を開始していた。高麗は江華島に逃れて激しく抵抗したものの、この侵攻はやがて高麗をモンゴル帝国の従属国へと追い込んでいくこととなる。オゴデイによる高麗侵攻と東アジア支配の拡大は、後に第5代フビライ=ハンが日本に対して遠征(元寇)を行うための、地政学的な前提条件を作り出したという点で、日本史においても極めて重要な歴史的転換点であった。