重光葵 (しげみつのまもる)
【概説】
大正から昭和期にかけて活躍した日本の外交官、政治家。第二次世界大戦終戦直後の東久邇宮内閣において外務大臣を務め、米戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印式に日本政府全権として臨んだ。戦後はA級戦犯として禁錮刑に処されるも、政界復帰後に再び外相となり、日本の国際連合加盟という悲願を達成した。
1. 戦前・戦中の外交キャリアと「大東亜外交」の模索
大分県出身の重光葵は、東京帝国大学を卒業後に外務省へ入省。早くから中国(清・中華民国)や欧州での外交実務に携わった。駐華公使時代の1932年、上海での天長節(天皇誕生日)祝賀会の最中、朝鮮人独立運動家・尹奉吉による爆弾テロ(上海天長節爆弾事件)に遭遇して右脚を失い、生涯義足での生活を余儀なくされた。
日米開戦後の1943年、東条英機内閣の外務大臣に就任。重光は、軍部主導の武力圧迫的な対アジア政策を批判し、アジア諸国との「対等な提携」を建前とする「新東亜外交」を提唱した。同年の大東亜会議の開催と、そこで採択された大東亜共同宣言は、重光の外交思想が色濃く反映されたものである。これらは戦争の美化という側面を孕みつつも、欧米帝国主義からの「アジアの解放」という大義名分を日本が掲げる上で重要な外交的試みであった。
2. ミズーリ号での降伏文書調印と間接統治の死守
1945年8月15日の敗戦後、皇族である東久邇宮稔彦王を首相とする終戦処理内閣が発足。重光はその外務大臣に起用され、戦後初の難局に対処することとなった。同年9月2日、東京湾上に停泊する米戦艦ミズーリ号の甲板において、重光は日本政府全権として(大本営代表の梅津美治郎参謀総長とともに)降伏文書に調印した。義足をステッキで支えながら、堂々とした態度で敗戦国代表としての責務を果たした姿は、昭和史を象徴する決定的な瞬間として知られている。
調印直後、連合国軍最高司令官(SCAP)のマッカーサーが軍政を直接布こうとする動きを見せると、重光は即座に直談判を行い、これを阻止。日本政府による間接統治方式(ポツダム宣言に基づく日本政府を通じた統治)の維持を認めさせることに成功した。この素早い外交的折衝は、日本が主権の完全な喪失と分割統治を免れるための極めて重大な貢献であった。
3. 戦犯からの復帰と「国連加盟」による国際社会復帰の結実
終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、重光は東条内閣等の閣僚を務めていたことから共同謀議などの容疑でA級戦犯として起訴され、禁錮7年の判決を受けた。しかし、重光の平和への努力や、対中協調姿勢を評価していた英米外交官らからの助命嘆願もあり、1950年に仮釈放された。
政界へ復帰した重光は、改進党総裁などを経て、1954年に発足した鳩山一郎内閣の副総理兼外務大臣に就任。最大の政治課題であった国際社会への完全復帰に向けて奔走した。1956年、日ソ共同宣言の調印によってソ連との国交が回復したことで、それまでソ連の拒否権発動により阻まれていた日本の国際連合加盟が、同年12月18日に国連総会で全会一致で承認された。国連本部の演説壇上で重光は「日本は東洋と西洋の架け橋となる」と格調高い演説を行い、自らの手で戦後外交の総仕上げを飾った。その翌月、重光は激動の生涯を閉じた。