東久邇宮稔彦 (ひがしくにのみやなるひこ)
【概説】
太平洋戦争の敗戦直後に内閣総理大臣に就任し、日本史上唯一の皇族内閣を組織した陸軍軍人、政治家。終戦直後の未曾有の混乱期において、軍部の反乱を抑えつつ日本軍の武装解除と降伏手続きを円滑に進める役割を担った。しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が突きつけた「人権指令」への対応を巡って内閣不一致に陥り、在任わずか54日で総辞職を余儀なくされた。
皇族内閣の誕生と終戦処理の断行
1945年8月15日の敗戦後、鈴木貫太郎内閣の辞職を受けて、昭和天皇の叔父(明治天皇の女婿)にあたる東久邇宮稔彦王に大命が降下した。敗戦という未曾有の国難にあたり、陸軍内の強硬派によるクーデターや暴動を抑え、日本軍の平穏な武装解除を進めるためには、皇室の圧倒的な権威を背景に持つ皇族の首相就任が不可欠であると判断されたためである。こうして成立した東久邇宮内閣は、日本憲政史上最初にして最後となる皇族内閣となった。
首相に就任した東久邇宮は、国民に対して「軍・官・民、総て国民が総懺悔すること」を求める「一億総懺悔」を呼びかけ、戦争の責任を特定の指導者だけでなく国民全体のものとして総括しようとする姿勢を示した。これは軍部や支配層の戦争責任を曖昧にするものとして後に批判を受けるが、当時の社会混乱を鎮静化させる一定の効果を持った。同内閣のもとで、1945年9月2日に戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印が行われ、国内外の日本軍約700万人の武装解除が大きな流血の事態を招くことなく、極めて平穏かつ速やかに遂行された。
GHQの「人権指令」と内閣総辞職
終戦処理と占領受け入れという最大の任務を果たした東久邇宮内閣であったが、本格的な戦後民主化改革を推し進めようとする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)との間で、急速に方針の乖離が露呈することとなった。1945年10月4日、GHQは日本政府に対し、「政治的、民事的及び宗教的自由に対する制限の撤去に関する覚書」、いわゆる「人権指令」を通達した。この指令は、治安維持法の即時廃止、特高警察の廃止、山崎巌内務大臣らの罷免、政治犯の即時釈放などを命じる極めて急進的なものであった。
東久邇宮および内閣は、治安維持法を撤廃して共産主義運動が復活することにより、国内の秩序が崩壊することを恐れ、この指令の即時実行に難色を示した。しかし、GHQの絶対的な命令に抗することは不可能であり、内閣は指令を実行できない責任を取る形で、翌10月5日に内閣総辞職へと追い込まれた。在任期間はわずか54日であり、これは日本の憲政史上最短の記録である。
総辞職後、東久邇宮は1947年に皇籍を離脱して「東久邇稔彦」となり、公職追放を受けた。追放解除後は、様々な実業や団体の結成に関わるなど波乱に富んだ後半生を送り、1990年に102歳の長寿でその生涯を閉じた。彼の内閣は極めて短命であったが、敗戦から占領期への過渡期において、軍部の暴走を防ぎつつ無事に平和的移行を成し遂げたという点において、日本近代史における大きな役割を果たした存在である。