第1次山県有朋内閣 (だいいちじやまがたありともないかく)
【概説】
黒田清隆内閣の瓦解後、1889年(明治22年)末に成立した長州閥の山県有朋を首班とする第3代内閣。翌年に第1回衆議院議員総選挙を実施して日本初の帝国議会(第1議会)に臨んだ。「主権線」と「利益線」という国防概念を打ち出して軍備拡張を主張したが、「民力休養・政費節減」を掲げる民党と予算案を巡って激しい対立を繰り広げた。
第1回帝国議会の開設と民党の台頭
条約改正交渉の失敗で退陣した黒田清隆の後を継ぎ、1889年(明治22年)12月に内閣を組織したのが、長州閥の重鎮であり軍部の最高実力者でもあった山県有朋(やまがたありとも)である。この内閣に課せられた最大の使命は、大日本帝国憲法の下で初めてとなる国政選挙を実施し、帝国議会を滞りなく開会させることであった。
1890年(明治23年)7月、日本初となる第1回衆議院議員総選挙が実施された。直接国税15円以上を納める男性という極めて限定的な有権者による選挙であったが、結果は自由党や立憲改進党など、かつての自由民権運動の流れを汲む政党勢力(民党)が過半数の議席を獲得する大勝に終わった。黒田内閣以来の「超然主義」を引き継ぎ、政党の影響力を排除しようとする山県内閣にとって、議会運営が極めて困難なものになることは開会前から明白であった。
「主権線」と「利益線」の提唱
同年11月に開会した第1回帝国議会において、山県首相は施政方針演説を行い、有名な「主権線」と「利益線」の概念を提示した。山県は、国家の独立を守るためには国境そのものである「主権線」を防衛するだけでなく、主権線の安全に密接に関わる周辺地域である「利益線」を確保しなければならないと主張した。
この「利益線」が具体的に指し示していたのは朝鮮半島である。当時、ロシア帝国がシベリア鉄道の建設に着手するなど東アジアへの進出を強めており、山県はこれに強い危機感を抱いていた。そのため、迫り来る欧米列強の脅威から日本を守るためには、大幅な陸海軍の軍備拡張が急務であるとし、多額の軍事費を計上した予算案を議会に提出したのである。
予算案を巡る攻防と教育勅語の渙発
しかし、議会の多数を握る民党は、地租の軽減と行政整理を求める「民力休養・政費節減」をスローガンに掲げており、政府の莫大な軍拡予算案に真っ向から反対した。民党は衆議院において予算案の大幅な削減を要求し、政府と議会は初っぱなから激しく衝突することとなった。
窮地に立たされた山県内閣は、威圧や買収といった裏面工作に乗り出し、最終的に自由党内の土佐派(板垣退助の直系ではないグループ)を切り崩すことに成功した。一部の議員が政府案の修正に賛成したことで、軍事費をある程度確保した予算案が辛うじて成立したのである。この第1議会での激しい攻防は、その後の初期議会における藩閥政府と政党勢力との果てしない対立の幕開けとなった。
また、第1次山県内閣の時期において特筆すべきは、1890年(明治23年)10月に教育に関する勅語(教育勅語)が渙発(発布)されたことである。忠君愛国を国民道徳の基本とするこの勅語は、近代日本の教育の精神的支柱となり、山県が目指した天皇制国家のイデオロギー的な基盤を固める上で極めて重要な役割を果たした。予算成立を見届けたのち、山県は心労を理由に辞表を提出し、後継を松方正義に譲って退陣した。