政費節減 (せいひせつげん)
【概説】
明治中期の初期帝国議会において、民党が藩閥政府に対して突きつけた財政改革のスローガン。政府の無駄な宮廷費や官員俸給(行政費)などを削減し、国家予算を圧縮することを要求した。この要求は、地主層の負担軽減を求める「民力休養」政策と表裏一体のものとして展開された。
「民力休養」を支える財政上の要求
明治23年(1890年)に開設された初期帝国議会において、衆議院の過半数を占めた民党(立憲自由党や立憲改進党などの野党勢力)は、藩閥政府が進める軍備拡張路線に強く反対した。民党が掲げた主たるスローガンが「民力休養」と「政費節減」である。
当時、松方財政によるデフレ政策や重い地租負担に苦しんでいた農民や寄生地主層(民党の主要な支持基盤)を救済するため、民党は地租軽減を求めた。その地租軽減を実現するための具体的な財源捻出策として提示されたのが、政府の役人給与や宮廷費といった行政経費を徹底的に削り、国家予算の規模そのものを縮小させる「政費節減」であった。
憲法第67条をめぐる藩閥政府との対立
民党側の政費節減要求に対し、超然主義を標榜する藩閥政府は激しく対立した。大日本帝国憲法第67条には、政府の同意なしに「既定の歳出」(官員の俸給や軍事費など)を削減・廃除できないという規定があり、政府はこれを盾に予算案の死守を図った。
第1回議会では、民党内の一派(土佐派)が買収・懐柔されたことで予算案が一部削減されて辛うじて成立したものの、第2回議会では予算案をめぐる対立から衆議院が解散された。続く第2回総選挙では、品川弥二郎内閣書記官長らによる激しい選挙干渉が行われ、多数の死傷者を出すなど、予算削減と政費節減をめぐる攻防は国政を揺るがす大問題へと発展した。
「和協の詔勅」による妥協と決着
政費節減を求める民党と、軍備拡張(建艦費)を譲らない政府との膠着状態を打開したのは、天皇の権威であった。第4回議会(第2次伊藤博文内閣)において、明治天皇から「和協の詔勅(建艦詔勅)」が出されたのである。
これは、天皇自らが内廷費を毎年30万円排出し、さらに文武官員の俸給の1割を納付させて軍艦建造費に充てるという、皇室・政府自らが「政費節減」を実践する形での妥協案であった。これにより民党側も軟化せざるを得なくなり、予算は成立へと至った。その後、日清戦争の勃発によって民党は政府の軍拡路線を支持するようになり、政費節減をめぐる激しい対立は終息へ向かうこととなった。