伏見(伏見城)

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】

伏見(伏見城) (ふしみ / ふしみじょう)

1592年〜1623年

【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、山城国(現在の京都府京都市伏見区)に築かれた城郭、およびその周辺に形成された城下町豊臣秀吉が晩年の居城および政治的拠点として築城し、秀吉の没後は徳川家康が政務を執って将軍宣下を受けるなど、天下人の交代劇における重要な舞台となった。豊臣期・徳川期の政治と交通の要衝として機能し、その後の伏見の都市発展の基盤を築いた。

秀吉の「隠居城」から「天下の政庁」への変貌

伏見城の築城は、1592年(文禄元年)に豊臣秀吉関白職を甥の豊臣秀次に譲り、自身の隠居所を伏見の指月(しげつ)に定めたことに始まる。しかし、この最初の城(指月城)は、1596年(慶長元年)に近畿地方を襲った慶長伏見地震によって倒壊した。秀吉は直ちに近くの木幡山(こはたやま)に場所を移して再建を開始(木幡山伏見城)、新たな城下町の整備に着手した。

この伏見城の再建は、単なる隠居用の城づくりにとどまらなかった。当時、豊臣政権の公式な政庁は大坂城であったが、秀吉は自身の執務拠点である伏見城に大名たちを集め、ここで実質的な政務や明(みん)との和平交渉などの外交政策を展開した。そのため、伏見城の周囲には全国の大名屋敷が立ち並び、事実上の「天下の政庁」として機能するようになった。秀吉は1598年(慶長3年)にこの伏見城で没している。

宇治川の治水と巨椋池の改修によるインフラ整備

秀吉による伏見城の築城は、周辺地域の大規模な地形改変を伴う国土開発事業でもあった。当時、伏見の南には広大な巨椋池(おぐらいけ)が広がっており、宇治川や木津川、淀川が合流する水害の多発地帯であった。秀吉はこれらの河川を分離し、宇治川の流路を伏見城の南側へと迂回させる大工事を断行した。これにより、宇治川の堤防(太閤堤)が築かれ、水害を防ぐと同時に水運の利便性が飛躍的に向上した。

この治水事業によって、伏見は京都と大坂を結ぶ淀川水系の結節点となり、物資が集散する巨大な港町(伏見港)として整備された。また、大坂や奈良高野山などへ通じる「伏見街道」などの陸路も整備され、水陸両面の交通の要衝としての地位を確立した。伏見城の城下町は、こうしたインフラ整備のもとで繁栄を極めることとなった。

徳川家康の執政と将軍宣下の舞台

秀吉の没後、遺児の豊臣秀頼大坂城に移ったが、五大老の筆頭であった徳川家康は伏見城に入り、ここで政務を主導した。1600年(慶長5年)、家康が上杉景勝討伐(会津征伐)のために東国へ下ると、石田三成らの西軍が挙兵し、伏見城を包囲した。留守居役を務めた家康の重臣・鳥居元忠らは激しく抵抗したものの、城は炎上し落城した(伏見城の戦い)。これが関ヶ原の戦いの前哨戦となった。

関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、翌1601年から伏見城の再建を開始した。そして1603年(慶長8年)、家康は再建された伏見城において朝廷からの使者を迎え、征夷大将軍の宣下を受けた。続く2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光もまた伏見城で将軍宣下を行っており、初期の江戸幕府において、伏見城は京都における臨時の政庁、および将軍就任儀礼を執り行う最も格式の高い空間として機能していた。

廃城と「血天井」にみる歴史の遺産

1615年(元和元年)の大坂の陣によって豊臣氏が滅亡し、さらに一国一城令が発令されると、徳川幕府にとって京都支配の拠点としての伏見城の重要性は低下していった。二条城の整備が進んだこともあり、1619年(元和5年)に伏見城の廃城が決定され、1623年(元和9年)の徳川家光の将軍宣下を最後に、城としての役割を完全に終えた。

解体された伏見城の建物や部材は、二条城や淀城、福山城などの再建・改修に再利用されたほか、京都の多くの寺社に寄進された。伏見城の戦いで鳥居元忠らが自刃した廊下の板は、供養のために天井に張られ、現在も京都の養源院や宝泉院などに「血天井」として残されている。城郭としての伏見城は消滅したが、城下町として整備された伏見の町は、江戸時代を通じて日本最大級の港町宿場町として機能し続け、後の伏見の酒造業の発展などにも繋がっていった。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:04

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