宿場町
【概説】
交通の要衝や街道沿いに発達し、旅人のための宿泊施設や人馬の継立を行う運送業者が集住した集落。安土桃山時代の交通政策を基盤として成立し、江戸時代には幕府の街道整備に伴って制度化され、近世における物流・交通の最大拠点として繁栄した。
中世の「宿」から安土桃山時代の街道整備へ
日本の交通制度において、古くは律令制下の駅伝制(駅家)が存在したが、中世に入ると交通の要所に自然発生的に「宿(しゅく)」と呼ばれる集落が形成されるようになった。戦国時代には各地の戦国大名が領国支配のために伝馬制を整備したが、これらを全国的な規模に押し上げたのが、安土桃山時代の織田信長や豊臣秀吉である。
信長は関所の撤廃や道路の拡幅、橋の架け替えなどを積極的に推進し、人や物の自由な往来を促進した。秀吉もこれを引き継ぎ、全国規模での交通網の基盤を築き上げた。これらの政策により、中世の小規模な「宿」は、近世的な宿場町へと変容・発展していくための前提条件が整えられたのである。
江戸幕府の五街道整備と宿場町の制度化
江戸幕府が開かれると、徳川家康は1601年(慶長6年)に東海道に伝馬制を敷き、以降、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中からなる五街道を本格的に整備した。これに伴い、一定の距離ごとに宿場町が指定され、幕府の役人や大名などの公用旅行者に人馬を提供する伝馬役(てんまやく)が宿場に課せられた。
幕府は伝馬役という重い負担の見返りとして、宿場町に対して屋敷地の年貢を免除する(地子免除)などの特権を与え、住民を保護・育成した。しかし、時代が下って交通量が激増すると、宿場町単独では規定の人馬を賄いきれなくなり、周辺の農村に人馬の負担を割り当てる助郷(すけごう)制度が導入されるようになった。
宿場町の内部構造と主要施設
制度化された宿場町には、その機能を果たすための多様な施設が設けられた。公用旅行者のために人馬の乗り継ぎ(継立)や荷物の運搬を手配する中心的な役所が問屋場(といやば)である。ここには問屋や年寄などの宿役人が詰め、宿場全体の運営を取り仕切っていた。
宿泊施設としては、大名や公家、幕府の役人などが利用する格式高い本陣(ほんじん)と、それに次ぐ予備的な脇本陣(わきほんじん)が置かれた。一方で、一般の武士や庶民の旅行者は、食事付きの旅籠(はたご)や、自炊を基本とする安価な木賃宿(きちんやど)を利用した。このほか、幕府の法令や禁制を掲示する高札場(こうさつば)も宿場町の中心付近に設けられ、行政的・情報的な拠点としての機能も担っていた。
交通量の増加による繁栄と近代化に伴う衰退
江戸時代の中期以降になると、諸大名の参勤交代による大通行のみならず、商品経済の発展に伴う商人の移動や、庶民による「お伊勢参り」をはじめとする寺社参詣が爆発的に流行した。これにより宿場町は大きな活況を呈し、各地から人・物・情報が集まる一大文化交流拠点となった。一部の旅籠には飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる遊女が置かれ、宿場町は娯楽施設としての側面も強めていった。
しかし、明治維新を迎えて近代国家が成立すると、伝馬制の廃止や鉄道網の開通によって交通のあり方が劇的に変化した。これにより、主要な鉄道路線から外れた宿場町は急速に衰退していった。現在では、長野県の妻籠宿(つまごじゅく)や福島県の大内宿(おおうちじゅく)のように、往時の歴史的景観を保存し、重要な観光資源として再生を遂げている宿場町も存在している。