五大老
【概説】
豊臣秀吉が晩年、幼い後継者である秀頼を補佐させるために任命した、豊臣政権下の最高国政機関。
徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(のち上杉景勝)という5人の有力大名で構成され、政権の安定と諸大名間の統制を図る役割を担った。
豊臣政権末期の課題と五大老の設置
1590年の小田原征伐によって天下統一を果たした豊臣秀吉であったが、その晩年の政権運営には大きな不安材料が存在した。第一に、後継者である豊臣秀頼が極めて幼少であったこと、第二に、秀吉自身の健康状態が悪化していたことである。一代で築き上げられた豊臣政権は秀吉の個人的なカリスマ性と絶対的な権力に依存する部分が大きく、秀吉は自身の死後に政権が瓦解する危機感を強く抱いていた。
そこで秀吉は、自身が没した後も幼い秀頼を主君として頂点に据え、諸大名の反乱を防ぐための合議制による権力維持システムを構想した。これが1598年(慶長3年)に制度化された五大老および五奉行の体制である。天下の有力大名を政権の最高中枢に取り込むことで、彼らに豊臣家への忠誠を誓わせるとともに、大名同士の相互牽制を働かせる狙いがあった。
五大老の顔ぶれとその役割
五大老に選ばれたのは、いずれも豊臣政権下で広大な領地と強大な軍事力を持つ「大大名」たちであった。筆頭格は関東250万石を領する徳川家康であり、次いで加賀の前田利家、中国地方の毛利輝元、備前の宇喜多秀家が名を連ねた。当初はここに筑前の小早川隆景が含まれていたが、隆景の病死後は会津の上杉景勝が加えられ、最終的な「五大老」の陣容が固まった。
五大老の主な役割は、政権の最高意思決定と、諸大名間の揉め事の調停、そして秀頼の補佐であった。豊臣政権の実務担当者である五奉行(石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以)が起案した政務事項を、五大老が承認して実行に移すという、合議体制が敷かれた。秀吉は死の直前、五大老に対して秀頼への忠誠を誓約する起請文を何度も書かせ、死後の政権の万全を期した。
秀吉の死と合議制の崩壊
1598年8月に秀吉が没すると、秀吉の威断によって保たれていた権力の均衡は瞬く間に崩れ始めた。筆頭大老である徳川家康は、秀吉が固く禁じていた大名間の私婚(無断での政略結婚)を次々と結び、自らの派閥形成と権力強化を露骨に進めた。これに対して、石田三成ら五奉行や他の大老たちは強く反発し、政権内に激しい対立が生じた。
この対立を辛うじて抑え込んでいたのが、家康に匹敵する人望と実力を持っていた大老・前田利家であった。しかし、1599年(慶長4年)に利家が病死すると、両者の衝突を仲裁できる重鎮がいなくなり、豊臣政権の内紛は決定的となった。利家の死の直後には、加藤清正や福島正則ら武断派の諸将による石田三成襲撃事件が起き、三成は奉行職を退き佐和山城への隠居に追い込まれた。
関ヶ原の戦いと体制の消滅
利家の死と三成の失脚により、徳川家康は事実上、豊臣政権の最高権力者として大坂城に入り、専横を極めるようになった。これに危機感を抱いた大老の上杉景勝は領国で軍備を増強し、家康との対決姿勢を明確にした(会津征伐)。そして1600年(慶長5年)、家康が上杉討伐のために大軍を率いて関東へ向かうと、それに呼応する形で石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発する。
この戦いにおいて、大老の毛利輝元は西軍の総大将として大坂城に入り、宇喜多秀家は西軍の主力として関ヶ原で奮戦した。一方、前田家(利家の跡を継いだ利長)は東軍に属した。つまり関ヶ原の戦いは、秀頼を補佐し豊臣家を支えるはずの五大老が東西に分かれて激突した権力闘争でもあった。戦いは家康率いる東軍の圧勝に終わり、敗れた宇喜多は改易・流罪、毛利と上杉は大幅な減封処分を受けた。これにより五大老の体制は名実ともに消滅し、徳川家康による新たな覇権、すなわち江戸幕府の確立へと直接的に繋がっていくのである。