高野山
【概説】
和歌山県北部の山上盆地に位置し、日本の真言密教の根本道場(金剛峯寺)が置かれた宗教都市。弘仁7年(816年)に空海が嵯峨天皇から下賜され、修禅の場として開創した。以後、政治権力や民衆の信仰と深く結びつき、日本仏教の発展において極めて重要な役割を果たし続けた。
空海による開創と密教空間の形成
和歌山県北部に広がる標高約800メートルの山上盆地である高野山は、大同元年(806年)に唐から帰国した空海(弘法大師)によって開かれた。真言密教の教えを広め、国家鎮護と修禅のための根本道場を求めていた空海は、弘仁7年(816年)に嵯峨天皇に上表し、この地を下賜された。周囲を山々に囲まれた内側が平坦な地形は、八葉の蓮華(蓮の花)に例えられ、密教の世界観である「曼荼羅」を地上に体現する絶好の霊地とみなされたのである。
空海は自ら山に分け入り、木々を伐採して金剛峯寺の建立に着手した。都の平安京に位置する教王護国寺(東寺)が国家と結びついた「公」の拠点であったのに対し、高野山は世俗から離れて修行に専念するための「私」的な修禅の場として位置づけられた。承和2年(835年)、空海はこの地で入定(永遠の瞑想に入ること)し、以来、高野山は空海が今も生き続けて衆生を救済しているという入定信仰の絶対的な聖地となった。
平安中後期の復興と「高野聖」の活躍
空海の没後、高野山は落雷や火災などの度重なる災害に見舞われ、一時は荒廃の危機に瀕した。しかし、平安時代中期に入ると、京都から祈親上人(定誉)らが入山して復興に尽力し、再び活気を取り戻した。特に11世紀の藤原道長による高野山参詣を皮切りに、白河上皇や鳥羽上皇などが相次いで高野御幸(高野参詣)を行ったことで、皇室や貴族から莫大な荘園の寄進が寄せられ、経済的基盤が確立された。
さらに平安時代後期から鎌倉時代にかけては、浄土教の広まりとともに「極楽浄土への往生」を願う信仰が空海の入定信仰と見事に融合した。この信仰を全国の民衆に広めたのが、高野聖(こうやひじり)と呼ばれる半僧半俗の宗教者たちである。彼らは諸国を遊行し、念仏を唱えながら高野山への納骨や寄進を勧誘した。これにより、高野山は一部の特権階級だけでなく、広く庶民層にまで支持される日本仏教の一大聖地へと成長を遂げたのである。
武家政権との関係と権門寺院としての発展
中世の高野山は、紀伊国を中心に全国各地に広大な寺領(荘園)を抱える大寺社勢力(権門)として君臨した。源頼朝や北条政子など鎌倉幕府の有力者からも手厚い保護を受け、金剛三昧院などが建立されて大いに栄えた。しかし、その強大な権力と経済力は、次第に独自の武力(僧兵)の保持へとつながり、戦国時代には天下統一を目指す武家政権と激しく衝突することになる。
特に織田信長とは対立を深め、天正9年(1581年)には高野山攻めの危機に直面したが、翌年の本能寺の変によって辛くも難を逃れた。その後、豊臣秀吉に対しては木食応其の奔走もあって恭順の意を示し、母の菩提を弔う青巌寺(現在の金剛峯寺の一部)が建立されるなど手厚い庇護を受けた。江戸時代に入ると、江戸幕府により寺領約2万1000石が安堵され、「一山境内地」としての強力な自治権を認められながら、全国の真言宗寺院を統括する学問寺としての機能も充実していった。
近代以降の変容と世界遺産への登録
明治維新に伴う神仏分離令とそれに続く廃仏毀釈の嵐は、高野山にも未曾有の打撃を与えた。広大な寺領は没収され、一時は存続すら危ぶまれたが、信徒の支援や近代的な宗門組織の再編により徐々に復興を遂げた。また、長らく厳格に守られてきた女人禁制も、社会の変化に伴い明治39年(1906年)に完全に解除され、近代化の波に柔軟に対応していった。
現在、高野山は真言宗の総本山として数多くの寺院(宿坊)が立ち並ぶ宗教都市の景観を色濃く残している。平成16年(2004年)には、熊野三山や吉野・大峯とともに「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録された。空海が切り拓いた密教の理想郷は、政治権力の変遷や民衆文化と深く結びつきながら、1200年以上の時を超えて今なお日本人の精神史において重要な位置を占め続けている。