小作農

松方デフレによって借金が返せずに土地を手放し、地主から土地を借りて耕作せざるを得なくなった農民を何というか?
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重要度
★★★

【参考リンク】
寄生地主制(Wikipedia)

小作農

【概説】
自身の所有する農地を持たない、あるいは極めて小規模しか持たず、地主から土地を借り受けて耕作を行った農民。収穫物のなかから極めて高額な現物小作料(主に米)を地主に納める必要があり、近代日本の農業社会において貧困層を形成した。明治時代の地租改正以降にその数を急増させ、戦後の農地改革に至るまで日本社会の深刻な課題であり続けた。

地租改正と小作農の急増

明治政府が1873年(明治6年)に実施した地租改正は、近代日本の税制を確立する重要な改革であったが、同時に農村社会に深刻な影響をもたらした。従来の年貢とは異なり、地価の一定割合(当初は3%、のち2.5%)を「現金」で国に納めることが義務付けられたため、農民は米価の変動リスクを直接負うことになった。さらに、1880年代前半の松方デフレによって農産物価格が暴落すると、重い税負担に耐えきれず土地を手放す農民が続出した。彼らは土地を買い集めた富裕な層(地主)から再び土地を借りて耕作するようになり、こうして自作農から没落した小作農が急増することとなった。

寄生地主制下の過酷な生活

明治時代中期以降、土地を大量に所有するだけで自らは農業を行わず、小作料からの収益で生活する寄生地主制が確立した。この制度下において、地主が国に納める地租は現金による定額であったのに対し、小作農が地主に納める小作料は現物(米)であり、かつ収穫量の約半分に達する極めて高額なものであった。

小作農は自らの過酷な労働の対価の多くを地主に奪われるため、常に貧困にあえぐこととなった。凶作の年であっても小作料の減免は容易には認められず、娘を製糸工場や紡績工場に女工として出稼ぎに出したり、身売りさせたりする悲惨な事例も後を絶たなかった。彼らの低賃金労働と農村の犠牲は、皮肉にも日本資本主義の初期の蓄積を底辺から支える要素となった。

大正・昭和期の小作争議の激化

大正時代に入ると、第一次世界大戦後のインフレーションや米騒動(1918年)を背景に、農民たちの権利意識が高揚した。1922年(大正11年)には初の全国的な農民組織である日本農民組合が結成され、小作料の引き下げや耕作権の確立を求める小作争議が全国各地で頻発するようになった。

昭和初期の昭和農業恐慌下では、生活困窮から争議はさらに激しさを増し、農村社会の大きな不安定要因となった。政府は小作調停法(1924年)などを制定して事態の沈静化を図ったが、地主と小作農という根本的な階級対立を解消するには至らなかった。その後、第二次世界大戦が激化すると、食糧増産の必要性から政府は食糧管理制度などを通じて耕作者である小作農を直接統制・保護するようになり、地主の権力は相対的に低下していった。

戦後の農地改革による消滅

小作農を長らく苦しめ続けた寄生地主制に終止符が打たれたのは、第二次世界大戦敗戦後のことである。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令に基づく農地改革(1946年〜1950年)により、不在地主の全貸付地と在村地主の一定規模以上の貸付地が国に強制買収され、小作農に安価で優先的に売り渡された。

この歴史的な大改革によって、かつての小作農の大部分は自らの土地を所有する自作農へと転換した。これにより、日本の農村における封建的な地主・小作関係は事実上解体され、近代日本において大きな社会問題であった「小作農」という存在は、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

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