資人 (律令期)
【概説】
律令制下の日本において、三位以上の貴族や特定の皇族に対し、身の回りの世話や護衛を行わせるために国家から支給された官有の従者。位階や役職に応じて支給人数が定められており、貴族の権威を保持するための公的保障制度の一環であった。
律令体制における資人の定義と配分規定
大宝律令や養老律令によって整備された日本の律令国家において、官人階級(特に最高幹部である公卿)には様々な特権が与えられた。そのうち、身辺の警護や雑務を担う従者として公的に支給されたのが資人(しじん)である。
資人の支給人数は、所有者の位階や役職に応じて厳格に定められていた。養老律令の規定によれば、一位の貴族には100人、二位には60人、三位には40人、そして参議(非参議の四位含む場合あり)には30人が与えられた。また、皇太子に仕える「帯刀資人(たちはきのしじん)」や、親王に付く「帳内(ちょうない)」なども同系統の制度である。これらは一般の公民(正丁)の中から徴発され、主家に配属された。
国家が支える貴族の特権と資人の実態
資人に選ばれた公民は、主家に奉仕する代わりに、国家に対する最大の負担であった調・庸などの税や、防人・軍団などの兵役が免除(または軽減)される特権を有していた。このため、重い負担から逃れたい公民にとっては、資人として貴族に仕えることは一種の自己防衛策でもあった。
律令国家がこのような制度を設けた背景には、上級貴族の私生活や威信を国家が公的に支えることで、官僚制の頂点に立つ特権階級の権威を可視化し、秩序を維持する狙いがあった。資人たちは主人が外出する際の行列に加わって威儀を整え、日常の家政雑務をこなすなど、貴族の私的権力を支える基盤として機能した。
律令制の弛緩と私的主従関係への変容
平安時代中期に入り、班田収授法の崩壊に伴って戸籍制度が形骸化すると、国家が公民を徴発して貴族に配分する資人制度も維持できなくなった。この結果、資人の支給は名目化し、貴族たちは自らの経済力(荘園の収入など)を用いて、私的な従者を直接雇用するようになっていった。
このプロセスは、日本の社会構造が律令的な「公的支配」から、私的な「主従関係」へと移行する象徴的な出来事であった。かつて国家から与えられた警護者としての資人の役割は、やがて有力貴族の身辺を守る「侍(さぶらい)」や「家子・郎等」といった私兵集団へと変質し、中世における武士の誕生へとつながる歴史的伏線となった。