紅露時代 (こうろじだい)
【概説】
明治20年代(1880年代後半〜1890年代)の日本文学界において、小説家の尾崎紅葉と幸田露伴の二大巨星が文壇をリードした黄金時代。江戸文学の伝統を近代的な写実主義と融合させた「擬古典主義」の全盛期を指す。
対照的な二大文豪の競演
明治維新以降の日本文学は、坪内逍遥の『小説神髄』や二葉亭四迷の『浮雲』によって写実主義(リアリズム)が提唱され、急速な近代化を遂げつつあった。そのなかで、実質的に明治20年代の文壇を二分し、絶大な人気を誇ったのが尾崎紅葉と幸田露伴であった。
尾崎紅葉は文学結社「硯友社」を率い、江戸の戯作者である井原西鶴の文体を巧みに取り入れながら、世俗的な男女の愛憎や社会風俗を雅俗折衷の流麗な文章で描いた。代表作に『多情多恨』や、のちに新聞連載で空前のブームを巻き起こす『金色夜叉』がある。
これに対し、幸田露伴は精神的な強さや職人の芸術的執念を描く、男性的で理想主義的な作風を特徴とした。妥協を許さない気骨ある人間像を描いた『五重塔』や『風流仏』などの名作を残し、紅葉の対極に位置する存在として文壇に君臨した。この二人の頭文字をとって、この一時期は「紅露時代」と称されるようになった。
日本語の洗練と自然主義への架け橋
紅露時代のもたらした歴史的意義は、近代日本語における文体の洗練と、文学の芸術的地位の向上にある。二人は西洋文学の影響を受けつつも、安易な模倣に走るのではなく、日本や東洋の古典文学の伝統を再評価して融合させる「擬古典主義」の潮流を形作った。彼らの試行錯誤は、過渡期にあった言文一致体の確立を大きく促すこととなった。
しかし、日清戦争(1894〜95年)を経て日本の産業革命が進展し、社会の矛盾や人間の内面的な苦悩が顕在化するようになると、文学の主流は装飾的な文体や理想主義を排し、厳しい現実をありのままに描く「自然主義」へと移行していく。明治36年(1903年)の紅葉の病没、および露伴の創作活動の停滞にともない、紅露時代は終焉を迎えたが、彼らが開拓した文学的土壌は、泉鏡花や国木田独歩、さらには夏目漱石や森鴎外といった次代の文豪たちへ確実に引き継がれていった。