幸田露伴 (こうだろはん)
【概説】
明治から昭和にかけて活躍し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる文壇の黄金期を築いた文豪。
代表作『五重塔』などにみられる、東洋の伝統的思想に裏打ちされた理想主義的で剛健な作風で知られる。
後年は史伝や古典文学の研究においても多大な功績を残し、近代日本における東洋的教養の体現者として重きをなした。
文学への志と理想主義の確立
幸田露伴(本名・成行)は、幕末の1867年(慶応3年)、江戸の下谷に生まれた。電信修技学校を卒業後、北海道の電信局に赴任するが、文学への情熱を抑えきれずに職を辞して帰京する。この帰京時の過酷な旅の経験が「露伴」という雅号の由来となった。1889年(明治22年)、山田美妙の主宰する雑誌に発表した『露団々』が坪内逍遥らに高く評価され、続いて『風流仏』を発表し、新進作家としての地位を確固たるものにした。
当時の文壇は、坪内逍遥が『小説神髄』で提唱した写実主義や、硯友社を中心とする世俗的で風俗描写に優れた小説が主流となりつつあった。しかし露伴は、そうした西洋的・世相的な潮流とは一線を画し、仏教や儒教などの東洋的教養を背景とした擬古典主義・理想主義を掲げた。俗世流されない孤高の精神世界や、強靭な意志を持つ人間像を描き出すその手法は、当時の文学界に強烈な存在感を示した。
代表作『五重塔』と男性的作風
露伴の文学的特質が最も顕著に表れているのが、1891年(明治24年)から翌年にかけて発表された代表作『五重塔』である。本作は、「のっそり十兵衛」とあだ名される不器用だが一途な大工を主人公とし、彼が数々の困難や妨害を乗り越えて、谷中感応寺の五重塔を建立し遂げるまでを描いた物語である。
十兵衛の芸術に対する執念と、妥協を許さない職人魂の描写は、露伴自身の芸術観や理想主義的な精神性を仮託したものであった。雅語や漢語を駆使した重厚で格調高い文体は、男性的で剛健な作風と評され、近代日本文学において特異かつ確固たる位置を占めることとなった。
尾崎紅葉との「紅露時代」
1890年代(明治20年代後半)の文壇において、露伴は尾崎紅葉とともに二大巨頭として並び称されるようになった。世俗の機微や恋愛模様を情緒豊かに描いた紅葉の「女性的・写実的」な作風に対し、精神の気高さや芸術への情熱を描いた露伴の「男性的・理想主義的」な作風は鮮やかな対照をなした。
この二人が文壇の覇を競い、明治の近代文学が大きな飛躍を遂げたこの黄金期を、両者の名をとって「紅露時代」(こうろじだい)と呼ぶ。彼らの活躍は、江戸文学の残滓から脱却し、日本の近代小説が芸術的な完成の域へと向かう重要な結節点となった。しかし、明治30年代に入ると、島崎藤村や田山花袋らによる自然主義文学が台頭し、紅露時代は終焉を迎えることとなる。
後年の活動と文化史的意義
自然主義文学が文壇の主流を占めるようになると、露伴は小説の第一線から次第に退き、史伝や随筆、古典文学の注釈・考証に活動の重心を移していった。『渋沢栄一伝』などの史伝の執筆や、『芭蕉七部集』の精緻な評釈など、該博な東洋学の知識を駆使した業績は極めて高く評価された。
西洋化・近代化が急激に進む明治・大正・昭和という激動の時代において、露伴は失われゆく東洋の伝統的価値観や古典教養を近代文学の中に昇華させ、保持し続けた。1937年(昭和12年)には、その多岐にわたる文化的な功績が認められ、第1回文化勲章を受章している。幸田露伴の存在は、単なる一小説家にとどまらず、近代日本における文化的な精神の重鎮として、今なお日本文化史において重要な意義を持っている。