織田信長
【概説】
尾張から台頭し、室町幕府を滅ぼして天下統一事業を推し進めた戦国大名。中世的な旧権威や制度を徹底的に破壊し、楽市・楽座などの斬新な政策で近世社会への扉を開いたが、統一の途上で本能寺の変により倒れた。
尾張の統一から桶狭間の戦いへ
織田信長は1534(天文3)年、尾張国(現在の愛知県西部)の守護代の家臣であった織田信秀の嫡男として生まれた。当時の尾張は国内の勢力が分断された下剋上の只中にあり、信長は家督相続後に一族や弟との激しい抗争を制して尾張一国を統一した。1560(永禄3)年には、駿河から上洛を目指して侵攻してきた有力大名・今川義元を桶狭間の戦いで奇襲により討ち取り、一躍その名を全国に轟かせた。この劇的な勝利により東海の脅威を取り除いた信長は、美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏攻略へと矛先を転じることとなる。
「天下布武」の掲揚と室町幕府の滅亡
美濃を平定した信長は、本拠地を岐阜に移し、「天下布武(武力による天下統一)」の印判を使用し始めた。1568(永禄11)年、暗殺された13代将軍足利義輝の弟である足利義昭を奉じて上洛を果たし、彼を15代将軍に就任させることで、自らは将軍を庇護する実質的な最高権力者としての地位を確立した。しかし、次第に幕府の復権を目指す義昭と、将軍の権力を制限して自らの政権を樹立しようとする信長との間で対立が深まる。1573(天正元)年、信長は挙兵した義昭を京都から追放し、これにより約240年続いた室町幕府は事実上滅亡した。
反信長包囲網との死闘と中世的権威の破壊
義昭の暗躍などにより、浅井氏・朝倉氏、武田氏、毛利氏、さらに石山本願寺や比叡山延暦寺などの強大な宗教勢力が結びつき、「反信長包囲網」が形成された。信長はこれに対して苛烈な手段で臨み、1571(元亀2)年には中世的権威の象徴であった比叡山延暦寺の焼討ちを断行した。また、1575(天正3)年の長篠の戦いでは、大量の鉄砲を組織的に活用する新戦術を用いて、当時最強と謳われた武田勝頼の騎馬隊を打ち破った。信長は宗教権威や既存の権力構造を徹底的に破壊・屈服させることで、自らを頂点とする新たな秩序の構築を目指したのである。
画期的な経済政策と安土城の築城
信長の統一事業を大きく前進させたのは、卓越した軍事力だけでなく革新的な経済・内政政策であった。1576(天正4)年には琵琶湖畔に豪壮な安土城を築き、そこを新たな天下統一の拠点とした。城下町においては楽市・楽座令を発布して座(特権的な同業者組合)を廃止し、関所を撤廃することで、商工業者の自由な取引と流通の活性化を図った。また、指出検地の実施や貨幣の撰銭令など、のちの豊臣秀吉による兵農分離や全国統一の基盤となる政策を次々と打ち出している。
本能寺の変と信長が遺した歴史的意義
毛利氏攻略などのため中国地方へ赴く途上の1582(天正10)年6月、信長は京都の本能寺に滞在中、重臣の明智光秀による突然の謀反に遭い、自害に追い込まれた(本能寺の変)。これにより信長の天下統一事業は目前で頓挫したが、その遺志と強固な権力基盤は豊臣秀吉へと速やかに引き継がれた。織田信長が日本史において果たした最大の歴史的意義は、中世を支配していた旧来の権威や制度(幕府、寺社勢力、荘園制の残滓など)を破壊し尽くし、実力主義に基づく中央集権的な支配体制の礎を築いた点にある。彼の圧倒的な行動力と合理主義は、日本社会が中世から近世へとパラダイムシフトを起こすための不可欠な原動力であったと評価されている。