米穀配給通帳制 (べいこくはいきゅうつうちょうせい)
【概説】
太平洋戦争期の日本において、主食である米穀の公平な分配と消費抑制を目的に導入された配給統制制度。各世帯に「米穀配給通帳」を交付し、これと引き換えに一定量の米を販売する仕組みである。日中戦争の長期化に伴う食糧不足に対応するため、1941年に全国都市部で実施され、翌年の食糧管理法制定によって全国へ拡大された。
戦時統制経済の強化と米不足の深刻化
1937年(昭和12年)に始まった日中戦争が長期化するなか、近衛文麿内閣は1938年に国家総動員法を制定し、日本は急速に戦時統制経済へと移行していった。さらに1939年には価格統制令(九・一八停止令)などの統制が敷かれたが、農村部での労働力や肥料の不足、さらには同年の朝鮮半島における大干魃が重なり、国内の米不足は深刻な社会問題となった。
こうした事態に対処するため、政府は米の自由取引を禁止し、国家が直接一元管理する方針を固めた。まず1940年に東京や大阪をはじめとする六大都市で試験的に通帳制が導入され、翌1941年(昭和16年)4月には全国の都市部へと拡大された。これこそが米穀配給通帳制の本格的な始まりである。
配給通帳制の仕組みと戦時下の国民生活
米穀配給通帳制のもとでは、各世帯に「内、外地人米穀配給通帳」が配られた。人々は指定された配給所(米穀商)へ出向き、通帳を提示して家族の人数や年齢に応じた基準量の米を購入した。米の配給量は年齢や労働強度によって細かく区分されていたが、戦局が悪化するにつれて一人あたりの配給量は減少し、大豆粕や芋類などの代用食が混入されることが常態化した。
さらに、外食をする際にも「外食券通帳」から切り離した外食券の提出が求められるなど、主食に関する経済統制は徹底された。この制度は、1942年(昭和17年)に制定された食糧管理法によって法的に裏付けられ、生産者から消費者までを国家が完全に統制する二重価格制(食糧管理制度)の基盤となった。
戦後の深刻な食糧難と制度の終焉
1945年(昭和20年)の敗戦後も、植民地からの米の流入が途絶え、復員や引揚者の急増、農村の疲弊などが重なり、日本の食糧事情は戦時中以上に悪化した。配給の遅配・欠配が相次ぐなか、国民は闇市で高価な「闇米(やみまい)」を買い求めて飢えをしのがざるを得なかった。この時期、配給のみで生活することを貫いて餓死した山口良忠判事の事件は、当時の深刻な食糧危機を象徴している。
その後、昭和30年代(1950年代半ば)以降の高度経済成長期に入ると、農業技術の進歩によって米は過剰気味となり、配給通帳制は次第に形骸化していった。しかし、制度自体は戦後の食糧管理法のもとで長く残存し、実質的な機能停止を経て、法的に正式に廃止されたのは1981年(昭和56年)の食糧管理法改正時のことであった。