袁世凱 (えんせいがい)
1859年〜1916年
【概説】
清末から中華民国初期にかけて活躍した中国の軍人・政治家。朝鮮駐留軍の若き指揮官として甲申事変を迅速に鎮圧し、東アジアにおける清朝の優位を確立して日本の進出を阻んだ人物。
甲申事変における迅速な武力介入
1880年代、李氏朝鮮では清朝との宗属関係を維持しようとする事大党(穏健開化派)と、日本と結んで近代化と独立を図る独立党(急進開化派)の対立が激化していた。1884年、金玉均や朴泳孝らの独立党は、日本の竹添進一郎公使や日本軍の支援を得てクーデターを断行し、新政権を樹立した(甲申事変)。
この危機に対し、当時25歳の若さで朝鮮駐留清国軍の指揮を執っていた袁世凱は、迅速な決断を下した。彼は事大党の要請を受ける形で即座に軍を動かし、日本軍が護衛する王宮を攻撃してこれを制圧。独立党のクーデターをわずか3日間で鎮圧し、日本の朝鮮進出の野望を一時的に頓挫させた。この一連の軍事行動により、袁世凱は清朝の実力者である李鴻章から高く評価され、頭角を現すこととなった。
朝鮮の「監国」化と日清対立の激化
甲申事変の解決後、日本と清の間で天津条約(1885年)が締結され、両国軍は一度朝鮮から撤退した。しかし、袁世凱は「駐紮朝鮮総理交渉通商事宜」(実質的な駐朝全権代表)として再び朝鮮に乗り込み、内政や外交に深く介入した。彼は朝鮮の国王・高宗を圧迫し、朝鮮の近代化改革を牽制しつつ、清の属国としての地位を固定化しようとした。
袁世凱が約10年間にわたり朝鮮で強固な支配体制(監国化)を敷いたことは、日本にとって大きな脅威となった。日本国内では「朝鮮の独立(清からの離脱)」を支援する名目のもと、対清強硬論が台頭し、軍備増強が急ピッチで進められる契機となった。結果として、袁世凱による朝鮮支配の強化は、1894年の日清戦争勃発を招く歴史的な導火線となったのである。