甲申事変

1884年、清軍がベトナムへ向かった隙を突き、金玉均ら独立党が日本の援助で政権を奪取しようとしたが、袁世凱の反撃で失敗した事件は何か?
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★★★

【参考リンク】
甲申政変(Wikipedia)

甲申事変 (こうしんじへん)

1884年

【概説】
1884(明治17)年、朝鮮の漢城(現在のソウル)において、近代化を目指す急進改革派の独立党(金玉均ら)が日本の軍事支援を受けて起こしたクーデター事件。清仏戦争による清国の隙を突いて政権奪取を図ったが、袁世凱率いる清軍の圧倒的な武力介入により、わずか3日で失敗に終わった。この事件の事後処理として日清両国間で天津条約が結ばれ、後の日清戦争へと至る朝鮮半島を巡る対立構造が決定づけられることとなった。

壬午軍乱後の朝鮮半島と党派対立

1882年に起きた壬午軍乱(じんごぐんらん)以降、朝鮮王朝の内部では深刻な派閥対立が生じていた。清の軍事的圧力を背景に政権を掌握した閔妃(びんひ)一族を中心とする保守派は、清国への伝統的な朝貢関係を維持しながら漸進的な改革を目指しており、事大党(じだいとう)と呼ばれた。これに対し、金玉均(きんぎょくきん)や朴泳孝(ぼくえいこう)ら少壮官僚を中心とするグループは、日本の明治維新をモデルとした急激な近代化と清国からの完全な独立を企図し、独立党(または開化派)と呼ばれた。

独立党は近代的な国家体制の構築を急いだが、事大党の妨害や資金不足に悩まされていた。さらに、漢城には壬午軍乱の鎮圧に赴いた清の軍隊が駐留し続けており、政治的にも軍事的にも事大党・清国側が圧倒的な優位に立っていたのである。

清仏戦争の勃発とクーデターの決行

膠着状態にあった朝鮮の政治状況を一変させる契機となったのが、1884年に勃発した清仏戦争である。ベトナムの宗主権を巡ってフランスと戦火を交えることになった清国は、兵力を南方に集中させるため、朝鮮駐留軍の半数を撤退させた。これを千載一遇の好機と見た独立党は、武力による政変の実行を決意する。

金玉均らは、朝鮮半島における清の影響力を排除したい日本の思惑を利用し、当時の日本公使・竹添進一郎に接近して軍事的支援と資金援助の約束を取り付けた。1884年12月4日、漢城に新設された郵政局の開局祝賀宴に乗じてクーデターが実行された。独立党は日本軍の護衛のもとで国王(高宗)を確保し、事大党の要人を次々と暗殺。翌日には清国との宗属関係の廃止や身分制度の撤廃などを含む画期的な新政権の樹立を宣言した。

清軍の介入と「三日天下」

しかし、独立党の政権は長くは続かなかった。事態の急変を知った閔妃が清国に救援を要請すると、駐留清軍を指揮していた袁世凱(えんせいがい)は直ちに大部隊を率いて王宮を包囲・攻撃した。わずか1個中隊ほどの日本軍護衛隊では圧倒的な兵力差を覆すことはできず、日本側は防戦の末に撤退を余儀なくされた。

後ろ盾を失ったクーデターはわずか3日間で瓦解し、この政変は後に「三日天下」と呼ばれた。金玉均や朴泳孝ら独立党の主要メンバーは日本への亡命を余儀なくされ、国内に残った開化派の多くは処刑された。結果として、朝鮮半島における日本の政治的影響力は大きく後退し、清国の属国化政策がより一層強化されることとなった。

天津条約の締結と東アジア国際関係への影響

事件後、日本と朝鮮の間では漢城条約が結ばれ、日本公使館焼失に対する謝罪や賠償金の支払いが取り決められた。しかし、より重要な歴史的意義を持つのは、日本と清国の関係再構築である。翌1885年、日本の全権・伊藤博文と清国の全権・李鴻章(りこうしょう)の間で天津条約(てんしんじょうやく)が締結された。

この条約により、日清両国は朝鮮半島からの即時撤兵を約束し、将来朝鮮に重大な事態が生じて出兵する際には、相互に事前の通告を行うこと(行文知照)が義務付けられた。これにより日本は清国と対等な派兵権を獲得した形となったが、当面は清国の優位が続くことへの苛立ちは日本の知識人層にも波及した。福沢諭吉が、朝鮮や清の近代化に見切りをつけて西洋列強と歩調を合わせるべきだと説いた有名な「脱亜論」を発表したのも、この甲申事変直後のことである。

甲申事変とそれに続く天津条約体制は、約10年後に起きる甲午農民戦争(東学党の乱)の際の日清両軍の同時出兵の根拠となり、そのまま日清戦争へと突入していく導火線となった。本事件は、近代東アジアの国際秩序が中華帝国を中心とする伝統的な体制から、帝国主義的な覇権争いへと決定的に転換していく過程の重要な結節点として位置づけられる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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