臥薪嘗胆 (がしんしょうたん)
【概説】
日清戦争後の三国干渉による屈辱に耐え、将来のロシアへの復讐を誓って国力を養うことを示した国民的スローガン。中国の故事に由来し、日露戦争に至るまでの約10年間、日本の軍備拡張や国民のナショナリズムを高揚させる精神的支柱として機能した。
中国の故事と本来の意味
「臥薪嘗胆」という言葉は、中国の春秋時代における呉と越の抗争に関する故事に由来する。『史記』などに記されているように、戦いに敗れた呉王の夫差が仇を討つために硬い薪の上で寝て(臥薪)苦痛を忘れまいとし、その後に敗れた越王の勾践が苦い動物の胆を嘗めて(嘗胆)復讐を誓ったという出来事から、「将来の目的を達成するために、長期間にわたって厳しい苦労や試練に耐え忍ぶこと」を意味するようになった。
三国干渉と国民的スローガンの誕生
日本史においてこの言葉が極めて重要な意味を持つのは、1895(明治28)年の日清戦争終結直後である。日本は戦勝の対価として、下関条約で清から台湾や澎湖諸島とともに遼東半島の割譲を受けた。しかし、満州への南下政策を進めていたロシア帝国はこれに強く反発し、ドイツ・フランスを誘って日本に遼東半島の還付を要求した(三国干渉)。
当時の日本には列強三国の強大な軍事力に対抗する余力はなく、伊藤博文内閣は要求を屈辱とともに受諾し、遼東半島を清に返還した。戦勝気分に沸いていた日本国民にとって、この出来事は痛恨の極みであり、巨大な衝撃と挫折感をもたらした。このとき、ロシアに対する強い敵対心と復讐心から、新聞や雑誌などのメディアが「臥薪嘗胆」という言葉を盛んに用い始め、またたく間に国民的なスローガンとして定着したのである。
軍備拡張と国民動員の精神的支柱
「臥薪嘗胆」は単なる流行語にとどまらず、その後の日本の国家方針や国民生活に多大な影響を与えた。政府は「将来のロシアとの衝突は不可避である」との前提のもと、ロシアに対抗しうる国力の充実と抜本的な軍備拡張政策を推し進めた。陸軍の師団増設や、海軍の「六六艦隊計画」(戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を中核とする艦隊整備)などがその代表的な施策である。
莫大な軍事費を賄うため、政府は地租増徴や各種新税の創設など、国民に重い負担を強いた。本来であれば強い反発を招く重税であっても、「打倒ロシアのための臥薪嘗胆である」という大義名分のもとで、国民は不満を抑えてこれを受忍した。すなわち、このスローガンは国家の軍拡路線と国民のナショナリズムを一致させ、来るべき総力戦に向けた体制を作り上げるための強力な精神的イデオロギーとして機能したのである。
日露戦争への道程と歴史的意義
「臥薪嘗胆」の精神のもとで国力を蓄積した日本は、1902(明治35)年にロシアを警戒するイギリスと日英同盟を結び、国際的な孤立を回避した。そして1904(明治37)年、ついに日露戦争が開戦する。三国干渉から約10年間、国民が耐え忍んだ「臥薪嘗胆」は、まさにこの決戦のためにあったと言える。
近代日本の歴史において「臥薪嘗胆」は、メディアを通じて形成された世論が国家の対外硬路線を後押しし、帝国主義的な軍事国家へと日本を決定的に変容させた象徴的な言葉として位置づけられる。国民が一体となって屈辱をバネに国家目標へ邁進したこの時期の特異な精神構造は、のちの日本の近代史の歩みを理解する上で極めて重要な意味を持っている。