龍野
【概説】
播磨国(現在の兵庫県たつの市)に位置し、江戸時代に淡口(うすくち)醤油の特産地として栄えた城下町。揖保川(いぼがわ)の水運と豊かな原材料に恵まれ、関西の食文化を代表する調味料の生産拠点として発展を遂げた。
淡口醤油誕生の歴史と自然環境
龍野における醤油造りは天正年間(1573〜1592年)頃に始まったとされるが、その決定的な転機となったのは、寛文年間(1661〜1673年)頃に開発された淡口(うすくち)醤油の誕生であった。龍野が淡口醤油の産地となった背景には、この地ならではの極めて恵まれた自然環境が存在した。
醤油の醸造に不可欠な仕込み水として用いられた揖保川の伏流水は、鉄分が極めて少ない軟水であった。鉄分は醤油の成分と反応して黒く変色させる性質があるため、揖保川の軟水は色の淡い醤油を造る上で決定的な優位性をもたらした。さらに、播磨平野で収穫される良質な小麦や大豆、そして近隣の赤穂で生産される高品質な塩が容易に入手できたことも、龍野での醤油産業の定着を強力に後押しした。龍野の淡口醤油は、仕込みの際に塩分濃度をやや高めにすることで発酵・熟成を抑え、色を薄く仕上げる独自の技術を確立していった。
上方の食文化との結合と流通網の確立
龍野の淡口醤油は、隣接する大消費地である京都や大坂(上方)の食文化と深く結びついて発展した。京都をはじめとする上方では、出汁(だし)の旨味や、食材そのものの色彩・風味を重んじる料理法が主流であった。龍野の淡口醤油は、素材の色を損なわずに旨味を引き出す調味料として、上方の料理人や庶民の間で不可欠な存在となった。これは、関東の野田(千葉県)や銚子(千葉県)で生産され、濃い色と強い風味が特徴で江戸の蕎麦や寿司の文化を支えた濃口(こいくち)醤油とは対照的な歩みであった。
この流通を支えたのが、揖保川の水運である。龍野の醸造元で生産された醤油は、揖保川を下って網干(あぼし)などの港へ運ばれ、そこから瀬戸内海の海路(西廻り航路など)を経て、速やかに大坂や京都へと供給された。江戸時代中期以降、龍野藩主となった脇坂氏(わきざかし)は、醤油造りを藩の重要な財源(特産品)として保護・推奨し、品質管理やブランド化を推進した。これにより龍野は「醤油の町」としての地位を不動のものとし、近代以降もヒガシマル醤油などに代表される醤油ブランドを輩出する地として発展を続けることとなった。