文保の和談 (ぶんぽうのわだん)
1317年
【概説】
鎌倉幕府の調停により、持明院統と大覚寺統の間で行われた皇位継承に関する和議。皇位を両統が交互に継承する「両統迭立(りょうとうてつりつ)」の原則を確認し、以後の皇位継承順序や天皇の在位期間について取り決めたとされる話し合い。
両統分裂の背景と幕府の調停
鎌倉時代中期以降、皇室は後深草天皇の流れを汲む持明院統と、亀山天皇の流れを汲む大覚寺統に分裂し、皇位継承や莫大な皇室領荘園の相続をめぐって激しい対立を続けていた。裁定を委ねられた鎌倉幕府は、原則として双方の系統から交互に天皇を擁立する両統迭立による方針をとり、両派の衝突を回避しようとした。1317年(文保元年)、持明院統の花園天皇の譲位に際し、次の皇位継承ルールを明確化するため、幕府の仲介のもとで交渉が行われた。これが「文保の和談」と呼ばれるものである。
合意内容の限界と南北朝動乱への伏線
この和談において、大覚寺統の尊治親王(のちの後醍醐天皇)の即位を認めるとともに、次の皇太子には持明院統の邦省親王(のちの光厳天皇)を立てること、また在位期間をそれぞれ10年程度とすることなどが取り決められたとされる(ただし、明確な合意文書は存在せず、幕府による一種の妥協案の提示に留まったとする説もある)。しかし、この和談によって即位した後醍醐天皇は、自身の系統に皇位を固定することを目指し、幕府が介入する両統迭立のあり方に強い不満を抱くようになった。結果として、この和談による不徹底な妥協は皇位継承問題を根本的に解決できず、後の後醍醐天皇による討幕運動と、それに続く南北朝の動乱を生み出す歴史的契機となった。