両統迭立 (りょうとうてつりつ)
【概説】
鎌倉時代後期、天皇家が持明院統と大覚寺統の二つの皇統に分裂し、鎌倉幕府の調停によって両統が交代で天皇に即位した状態。この変則的な皇位継承のあり方は朝廷の権威を失墜させ、後の討幕運動や南北朝時代の動乱を引き起こす歴史的要因となった。
皇統分裂の発端と後嵯峨法皇の崩御
鎌倉時代中期の天皇である後嵯峨天皇は、長男の後深草天皇にいったん皇位を譲ったものの、後に次男の亀山天皇を寵愛するようになり、後深草から亀山への譲位を強行した。1272年、治天の君として君臨していた後嵯峨法皇が次代の皇位継承者を明確に指定しないまま崩御すると、後深草の血統(持明院統)と亀山の血統(大覚寺統)の間で激しい皇位継承争いが勃発することとなった。これが長きにわたる天皇家分裂の端緒である。
鎌倉幕府の介入と「迭立」の常態化
朝廷内部で収拾がつかなくなった両統は、自らの正当性を主張して裁定を鎌倉幕府(執権北条氏)に求めた。幕府は深刻な朝廷の対立を緩和するため、双方の皇統から交代で天皇を出すという方針を示した。これが「両統迭立(迭立とは、互い違いに立つこと)」である。1317年には、幕府の働きかけで両統の妥協を図る文保の和談(ぶんぽうのわだん)が行われたが、根本的な解決には至らなかった。この結果、天皇の即位や立太子といった朝廷の最重要事項が幕府の承認なしには決定できなくなり、朝廷の幕府への従属決定的なものとなった。
膨大な皇室領をめぐる経済的対立
持明院統と大覚寺統の対立は、単なる血統や名誉の問題にとどまらず、皇室が所有する莫大な荘園群の帰属をめぐる経済闘争でもあった。持明院統には長講堂領(ちょうこうどうりょう)が、大覚寺統には八条院領(はちじょういんりょう)がそれぞれ主要な経済基盤として継承された。この二大荘園群から得られる莫大な富がそれぞれの皇統の政治力の源泉となり、公家社会全体をも二分する深刻な派閥争いへと発展していったのである。
両統迭立の崩壊と南北朝の動乱へ
14世紀に入り、大覚寺統から後醍醐天皇が即位すると事態は急変する。大覚寺統の中でも傍流であった後醍醐天皇は、自らの直系子孫に皇位を独占させ、天皇を中心とする強力な専制政治を実現しようと志向した。そのためには、両統迭立の原則を維持しようとする鎌倉幕府の存在が最大の障害となり、幕府を打倒する必要に迫られた。こうして引き起こされた正中の変・元弘の乱を経て、1333年に鎌倉幕府は滅亡する。
その後、建武の新政の失敗を経て、持明院統の天皇を擁立する足利尊氏(北朝)と、吉野へ逃れた後醍醐天皇(南朝)が並立する南北朝時代へと突入した。室町幕府の第3代将軍・足利義満による1392年の南北朝合一(明徳の和約)において「今後は両統迭立とする」という条件で南朝から北朝へ三種の神器が引き渡されたものの、結局この約束は守られず、持明院統(北朝)による皇位の独占が確立した。鎌倉時代後期に始まった両統迭立の問題は、室町時代に至るまで約100年以上にわたり、日本全土を巻き込む大動乱の根源となったのである。