切符制
【概説】
衣料品やマッチなどの生活必需品を購入する際、政府から配給された切符(購入割当券)との交換を義務付けた消費統制の制度。日中戦争から太平洋戦争へと戦局が拡大するなか、極端な物資不足に対応するために導入され、戦後の経済復興期まで国民生活を強く規制した。
戦時統制経済の本格化と切符制の導入
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると、日本経済は急速に戦時体制へと移行した。軍需物資の生産が最優先された結果、民需用の生産力は制限され、国民生活に直結する物資の供給は次第に逼迫していった。1938年(昭和13年)に制定された国家総動員法により、政府は物資の生産から流通、消費に至るまで全面的に統制する権限を獲得した。
しかし、物資の不足はインフレーション(物価の高騰)と買い占めを引き起こすため、政府は価格を凍結する公定価格制(1939年の価格等統制令)を実施した。それでも物資不足は根本的には解消されず、国民に最低限の生活必需品を公平に分配し、かつ不要不急の消費を抑え込むための直接的な手段として、切符制が導入されることとなった。
制度の仕組みと対象品目の拡大
切符制とは、指定された品目を購入する際、現金とともに政府が発行した「切符」を販売店に提出しなければならない仕組みである。1940年(昭和15年)にマッチや砂糖を対象として本格的に始まり、次第に日用品全般へと拡大していった。
特に国民生活に大きな影響を与えたのが、1942年(昭和17年)から実施された衣料品切符制である。これは背広から下着、靴下、タオル、糸に至るまであらゆる繊維製品を対象とし、年齢や職業などに応じて1人あたりの「点数」が割り当てられ、国民はその持ち点の範囲内でしか衣類を購入できなくなった。なお、米などの主食類については、通帳を用いた「配給制」がとられたが、消費を物理的に制限するという本質において切符制と軌を一にするものであった。
国民生活の窮乏と「ヤミ」の発生
切符制の導入は、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」といったスローガンとともに、国民に極端な耐乏生活を強いるものであった。制度の開始当初は切符と引き換えに物資を入手できたが、太平洋戦争の長期化・激化に伴い、物資そのものの生産と流通が激減した。
その結果、切符を持っていても店頭に品物がない「遅配」や「欠配」が常態化した。正規のルートで生活必需品が得られなくなった国民は、生きるために統制外のルートに頼らざるを得なくなり、農村への買い出しや非合法なヤミ取り引き(ヤミ市)が横行した。切符制は「公平な分配」を理念としていたが、現実には配給機構の麻痺によってその機能を果たせなくなっていった。
戦後の混乱から統制解除・制度の終焉へ
1945年(昭和20年)の終戦後も、生産設備の壊滅や海外からの引揚者による人口増加により、物資不足と悪性インフレーションは戦時中以上に深刻であった。そのため、切符制や配給制などの経済統制機構はそのまま維持され、衣料品や一部の日用品は戦後も長らく切符なしでは購入できない状態が続いた。
しかし、1949年(昭和24年)に実施されたドッジ・ライン(強力な経済安定化策)によるインフレの収束や、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争による特需(朝鮮特需)を契機として、日本経済は急速に生産力を回復させていった。市場に物資が出回るようになると経済統制の必要性は薄れ、1950年には衣料品の切符制が撤廃された。これを以て、約10年にわたり国民生活を縛り続けた切符制は実質的に消滅し、日本は自由な消費市場へと回帰を果たしたのである。