片山潜 (かたやません)
【概説】
明治から昭和初期にかけて活躍した日本の労働運動家・社会主義運動の先駆者。アメリカ留学を経て帰国し、高野房太郎らと労働組合期成会や社会民主党の結成に参加して日本の初期社会運動を牽引した。のちにマルクス主義に接近してソビエト連邦へ渡り、コミンテルンの最高幹部として国際共産主義運動に身を捧げた。
アメリカ留学とキリスト教社会主義への傾倒
片山潜は1859(安政6)年、美作国(現在の岡山県)の庄屋の次男として生まれた。向学心に燃えて上京したのち、1884(明治17)年に渡米した。アメリカではサンフランシスコなどで過酷な肉体労働に従事しながら苦学を重ね、アイオワ州のグリンネル大学などを卒業した。この約12年間に及ぶアメリカ滞在期において、彼はキリスト教の洗礼を受けるとともに、当時の欧米で高まりを見せていた貧困問題の解決を目指すキリスト教社会主義の思想に深い影響を受けた。
近代日本における初期労働運動の牽引
1896(明治29)年に帰国した片山は、東京の神田崎町にキリスト教社会事業の拠点として「キングスレー館」を設立し、労働者への教育やセツルメント(隣保事業)を開始した。翌1897年、同じくアメリカ帰りの高野房太郎らとともに労働組合期成会を結成し、日本における本格的な近代労働組合運動の幕を開けた。
片山は、日本の労働運動の草分けとなる職能別組合「鉄工組合」の結成を主導し、同会の機関紙『労働世界』の主筆として労働者の権利向上と団結を力強く訴え続けた。当時の日本は日清戦争後の産業革命期にあり、劣悪な労働環境が深刻な社会問題となっていたため、片山らの運動は多くの労働者の支持を集めた。
社会主義政党の結成と反戦運動
労働運動の限界を感じ始めた片山は、次第に社会主義を通じた根本的な社会変革を目指すようになる。1901(明治34)年、幸徳秋水や安部磯雄らとともに、日本初の社会主義政党である社会民主党を結成した。しかし、これは当時の第4次伊藤博文内閣によって治安警察法に基づき即日結社禁止処分となった。
日露戦争(1904〜1905年)が勃発すると、片山は幸徳秋水らとともに非戦論を貫いた。1904年にはオランダのアムステルダムで開催された第6回万国社会党大会(第2インターナショナル)に日本代表として出席し、交戦国であるロシアの代表プレハーノフと壇上で固く握手を交わした。この行動は、国家の対立を超えた労働者の国際的連帯の象徴として世界的な喝采を浴びた。
亡命からコミンテルン幹部へ
日露戦争後、日本国内における社会主義運動への弾圧は激しさを増していった。1911(明治44)年、片山は東京市電のストライキを指導した罪で検挙・投獄される。出獄後の1914(大正3)年、官憲の厳しい監視に耐えかねた片山は再びアメリカへ亡命した。
アメリカ滞在中にロシア革命(1917年)が勃発すると、片山はキリスト教社会主義からマルクス主義(共産主義)へと急激に思想を転換させた。1921年にソビエト連邦のモスクワへ招かれると、国際共産主義組織であるコミンテルン(第3インターナショナル)の常任執行委員に選出された。以降、彼はソ連を拠点に国際共産主義運動の世界的指導者として活動し、1922年の日本共産党(第一次)の結成にもコミンテルン幹部として深く関与した。
1933(昭和8)年、片山は日本へ帰国することなくモスクワで客死した。その葬儀は国葬級の扱いで行われ、遺骨は世界の共産主義の英雄たちとともにクレムリンの壁に埋葬されている。日本の近代化の暗部に立ち向かい、世界の革命運動の中枢にまで登り詰めた彼の生涯は、日本近代史においても極めて特異でスケールの大きなものであった。