大森貝塚
【概説】
東京都の品川区から大田区にかけて所在する、縄文時代後期から晩期にかけて形成された貝塚。1877(明治10)年、アメリカ人のお雇い外国人エドワード・S・モースによって日本で初めて科学的な発掘調査が行われた遺跡である。この発掘は、近代日本における考古学および人類学の出発点となり「日本考古学発祥の地」として極めて重要な位置を占めている。
近代科学としての「日本考古学」の幕開け
大森貝塚の歴史的意義は、単なる古代遺跡の発見という事実にとどまらず、日本に初めて西洋の近代的な科学的発掘手法がもたらされた点にある。1877(明治10)年6月、腕足動物(シャミセンガイなど)の研究のために来日したアメリカ人の動物学者エドワード・S・モースは、横浜から新橋へと向かう日本初の鉄道(1872年開通)に乗車中、車窓から大森駅周辺の崖に白い貝殻が層状に堆積しているのを発見した。
当時の日本における過去の遺物の扱いは、珍しい石器や土器を収集し鑑賞する「好古家(こうこか)」の趣味の領域を出ていなかった。しかしモースは同年9月より発掘調査を開始し、地層の重なりから年代の前後関係を読み取る「層位学」の概念や、出土状況の客観的な記録、さらには生物学的な進化論の視点に基づく分析など、当時の最先端の科学的手法を日本に提示したのである。
「縄文」という名称の由来
モースは発掘調査の成果をまとめ、1879(明治12)年に報告書『大森介墟古物編(Shell Mounds of Omori)』を東京大学から出版した。これは日本で最初の本格的な学術発掘報告書である。この報告書のなかで、モースは大森貝塚から出土した土器の表面に施された縄目の模様に着目し、これを「Cord Marked Pottery(索文土器)」と表現した。
この英語表記は、のちに植物学者の白井光太郎らによって「縄紋(のちに縄文)」と和訳された。つまり、現在私たちが日本の歴史区分として日常的に使用している「縄文時代」や「縄文土器」という名称は、大森貝塚の調査によって誕生したのである。これは、一遺跡の調査結果が日本列島の歴史体系の構築に決定的な影響を与えた好例と言える。
出土品から読み解く縄文社会と論争
大森貝塚からは、ハイガイ、マガキ、ハマグリなどの貝殻だけでなく、多数の縄文土器、石斧などの石器、鹿や猪の骨から作られた骨角器、さらには獣骨や人骨など、当時の生活圏や自然環境を示す豊かな資料が出土した。特に貝類の研究は、かつての海面が現在よりも内陸まで入り込んでいたこと(縄文海進)や、当時の水温・気候の変動を証明する環境考古学的な証拠となった。
また、学史的に特筆すべきは人骨の発見である。出土した人骨のうち、脛骨(けいこつ)などが人為的に割られていたり、火に炙られた痕跡があったりしたことから、モースはこれを「骨の中の髄をすする目的であった」と解釈し、縄文時代にカニバリズム(食人風習)が存在したという仮説を発表した。この説は当時の学界に大きな論争を巻き起こし、結果として日本の人類学研究が急速に発展する契機ともなった(現在では、食人説よりも再葬や特殊な葬送儀礼の痕跡とする見方が有力である)。
保存運動と現代への継承
大森貝塚の発掘は、遺跡保存の歴史という観点でも重要である。発見当時は大森村(現在の大田区)と大井村(現在の品川区)の境界付近に位置しており、後に鉄道の拡張や宅地開発によって地形は大きく変貌した。そのため、貝塚の正確な位置がわからなくなる「大森貝塚はどこか」という論争が昭和初期に勃発したが、後の再調査によって品川区側と大田区側の広範囲にまたがる大規模な遺跡であったことが判明している。
現在、遺跡の中心部は「大森貝塚遺跡庭園」として整備されており、1955(昭和30)年には国の史跡に指定された。モースがもたらした学術的探究の精神は、現代の日本考古学の礎として今なお高く評価されている。
↓一応、横に引き延ばす前の画像(背景の人は消した後)
