河合栄治郎 (かわいえいじろう)
1891年〜1944年
【概説】
昭和初期に活躍した東京帝国大学経済学部教授であり、著名な社会思想家。自由主義・個人主義の立場からファシズムとマルクス主義の双方を批判したが、国家主義的統制が強まるなかで弾圧を受け、大学を追われた人物。
社会思想家としての立場:左右の全体主義への対抗
河合栄治郎は、イギリスの思想家トマス・ヒル・グリーンの理想主義哲学に深く影響を受け、人格の尊厳と社会の改良を重視する人格主義的自由主義(社会改良主義)を提唱した。彼は、資本主義の弊害を認めつつも、その解決を私有財産制の否定や暴力革命に求めるマルクス主義を強く批判した。一方で、1930年代に台頭した軍国主義やファシズム、国家主義についても、個人の自由を脅かす「全体主義」として厳しく告発した。このように左右の過激思想に対抗し、民主主義的な議会政治と社会政策による社会の漸進的改革を訴え続けた。
河合栄治郎事件と「平賀粛学」
日中戦争の勃発にともない国家総動員体制へと向かうなかで、河合の自由主義的思想は右翼勢力や軍部から「国体に反する」として激しい攻撃の対象となった。1938年(昭和13年)、彼の代表作である『ファシズム批判』や『社会政策原理』など4冊の著書が、内務省によって発禁処分に付された。翌1939年、東京帝国大学総長に就任した平賀譲は、学内の混乱を収拾することを名目に、河合に対して休職処分を下した。この強権的な措置は「平賀粛学」と呼ばれ、これに抗議する東大経済学部の教授らが相次いで辞表を提出するなど、大学自治をめぐる一大問題へと発展した。河合はその後、出版法違反で起訴され、裁判で無罪を主張して闘ったものの、1942年に有罪判決が確定し、失意のうちに太平洋戦争末期の1944年に没した。彼の学問の自由を守る闘いは、戦時下の知的抵抗の先駆的事例として戦後高く評価された。