河合栄治郎事件 (かわいえいじろうじけん)
【概説】
昭和恐慌後の思想統制が強まる中、東京帝国大学経済学部教授・河合栄治郎の自由主義的な著作が発禁処分を受け、最終的に彼が大学を追放された言論・思想弾圧事件。マルクス主義とファシズムの双方を批判した知識人が、日中戦争期の国家権力によって排除された昭和戦前期の象徴的な事件である。
事件の背景:二大潮流への対抗と「自由主義」の危機
河合栄治郎は、イギリスの社会民主主義や理想主義哲学に基づき、個人の自由を尊重しつつ社会改革を目指す立場をとっていた。彼は、当時台頭していた暴力的なファシズム(右翼・国家主義)を激しく批判すると同時に、階級闘争を肯定するマルクス主義(左翼・共産主義)をも批判し、第三の道としての自由主義を提唱していた。
しかし、1937年(昭和12年)の日中戦争勃発を機に、日本国内では「国体の本義」への絶対服従と戦時体制への思想統一が急速に進められた。こうした中、右翼学者集団である「原理日本社」の蓑田胸喜らが河合の言説を「国体に反する」として激しく攻撃し、政府に対して排撃を促す運動を展開した。
事件の経緯と「平賀粛学」による学問の自由の崩壊
1938年(昭和13年)、内務省は河合の『ファシズム批判』や『社会政策原理』など主要な著書4冊を発禁処分(発売頒布禁止)とした。さらに政府は東京帝国大学に対し、河合の処分を要求する圧力をかけた。
これに対し、東大経済学部内では河合を擁護する自由主義派の教員と、河合を排斥しようとする右派・国家主義派(革新派)の教員との間で激しい対立が生じた。1939年、東大総長に就任した平賀譲(ひらがゆずる)は、事態の収拾を図るために河合に休職を勧告し、同時に反対派のリーダーであった土方成美教授らをも処分した。この強硬な学内処分は「平賀粛学」と呼ばれ、河合を支持する多くの教官が抗議のために辞職する事態へ発展した。
1933年の滝川事件や1935年の天皇機関説事件に続くこの河合栄治郎事件によって、日本の最高学府における「大学の自治」と「学問の自由」は決定的な打撃を受け、言論統制は軍部主導の戦時翼賛体制へと突き進むこととなった。