北条氏(後北条氏) (ほうじょうし(ごほうじょうし)
【概説】
北条早雲(伊勢宗瑞)を祖とし、相模国小田原城を本拠に関東地方の大半を支配した戦国大名。鎌倉時代の執権であった北条氏と区別するため、「後北条氏」や「小田原北条氏」と称される。五代約100年にわたり高度な領国支配を展開したが、豊臣秀吉の小田原征伐により滅亡した。
伊勢宗瑞による関東進出と「北条」の誕生
後北条氏のルーツは、室町幕府の高級幕臣であった伊勢宗瑞(北条早雲)にある。宗瑞は駿河国守護の今川氏のお家騒動を調停したことを契機に駿河に下り、1493年(明応2年)には伊豆国へ討ち入って堀越公方を滅ぼした。これが東国における戦国時代の幕開けとされる。その後、相模国に進出して小田原城を奪取し、戦国大名としての強固な基盤を築き上げた。
宗瑞の跡を継いだ二代北条氏綱は、関東管領などを歴任した名門・鎌倉北条氏の権威を利用するため、自らの姓を伊勢から「北条」へと改めた。氏綱は武蔵国へ進出して勢力を拡大するとともに、虎の印判状を用いた公文書の制度化や、家臣団の編成を進め、大名としての領国支配体制を本格化させた。
河越夜戦と関東覇権の確立
三代北条氏康の時代、後北条氏は飛躍的な発展を遂げる。当時、関東への進出を阻んでいたのは、室町幕府の伝統的権威を持つ山内・扇谷の両上杉氏や、古河公方であった。1546年(天文15年)、氏康は河越夜戦(河越城の戦い)において、圧倒的多数の連合軍を奇襲によって打ち破り、扇谷上杉氏を滅亡させた。この勝利により、後北条氏の関東における覇権は決定的なものとなった。
また、氏康は周辺の強国との外交交渉にも優れていた。1554年(天文23年)には、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元との間で甲相駿三国同盟を締結。これにより背後の安全を確保し、越後の上杉謙信や常陸の佐竹氏ら北関東・東北勢力との激しい抗争に注力できる環境を作り上げた。
先進的で高度な領国支配体制
後北条氏が関東で約100年にわたり強固な支配を維持できた最大の理由は、その先進的な民政と家臣団統制にある。後北条氏は、全国の戦国大名に先駆けて指出検地を徹底し、家臣や領民の負担を銭換算で明確化する貫高制を確立した。税率は「四公六民」と当時としては比較的低く抑えられ、飢饉や戦乱の際には徳政令を発布して農民の保護に努めた。さらに、領民からの直訴を受け付ける目安箱を設置するなど、公正な裁判と撫民政策を推進した。
軍事面では、本拠である小田原城を中心に、関東各地に支城を配置する支城制を極めて高度に発達させた。一族や有力な譜代家臣を城将として配置し、本城と支城を独自の伝馬制やのろしで緊密に結びつけることで、上杉謙信や武田信玄の大軍による度重なる侵攻をも退ける強固な防衛網を構築していた。
最大版図の実現と豊臣秀吉による小田原征伐
四代北条氏政および五代北条氏直の時代、1582年(天正10年)の織田信長横死(本能寺の変)によって生じた旧武田領の空白地帯を巡る争い(天正壬午の乱)に乗じ、後北条氏は上野国や下野国などへ勢力を伸ばした。この時期、後北条氏の領国は関東の大半にあたる約240万石に達し、最大版図を築き上げた。
しかし、時代はすでに豊臣秀吉による天下統一へと向かっていた。関白に就任した秀吉は、大名間の私闘を禁じる惣無事令を発令したが、後北条氏の家臣が真田氏の領地であった名胡桃城を奪取する事件(名胡桃城事件)が発生する。これを重大な惣無事令違反とした秀吉は、1590年(天正18年)に全国の諸大名を動員して小田原征伐を敢行した。
後北条氏は「小田原評定」と呼ばれる合議で対応を協議し、無敵を誇る小田原城での籠城戦を選択した。だが、水陸から完全に包囲する秀吉の圧倒的な大軍と兵糧攻めの前に、約3ヶ月で開城を余儀なくされた。当主の氏政は切腹、氏直は高野山へ追放され、ここに戦国大名としての後北条氏は滅亡した。その後、小田原を中心とする広大な旧北条領には徳川家康が移封され、後の江戸幕府の強固な経済基盤へと受け継がれていくこととなる。