小田原城
【概説】
相模国(現在の神奈川県小田原市)に所在した、戦国大名・後北条氏の本拠地として知られる城郭。上杉謙信や武田信玄の大軍による攻撃にも耐え抜いた難攻不落の城として名高く、城下町全体を土塁と堀で囲む「総構(そうがまえ)」という巨大な防衛機能を有していた。豊臣秀吉の小田原攻めによって開城するまで、約1世紀にわたり関東支配の中心地として君臨した。
後北条氏の台頭と小田原城の拡張
小田原城の起源は、15世紀中頃に相模国の領主であった大森氏が築いた山城にあるとされる。1495(明応4)年頃、伊豆を平定した北条早雲(伊勢宗瑞)が計略によって大森氏からこの城を奪取し、以後、後北条氏の関東進出の拠点となった。2代当主の北条氏綱の時代に本拠地として本格的な整備が進められ、続く氏康、氏政、氏直の5代にわたって関東支配の中心として機能した。
後北条氏の勢力拡大に伴い、城郭も大規模な改修と拡張が繰り返された。特に注目されるのは、城だけでなく広大な城下町全体を土塁と空堀で囲い込む「総構(そうがまえ)」の構築である。その周囲は約9キロメートルにも及び、戦国時代の日本において最大規模の城郭都市を形成していた。これにより、家臣だけでなく領民や商人をも城内に収容して保護するとともに、極めて強固な防衛網を築き上げたのである。
難攻不落の要塞と二度の防衛戦
小田原城が「難攻不落」として歴史にその名を轟かせたのは、当時の関東において最大の脅威であった二つの大軍勢の攻撃を退けたことによる。1561(永禄4)年、関東管領を擁する上杉謙信(長尾景虎)が約10万の大軍で小田原城を包囲したが、後北条氏は総構を利用した徹底的な籠城戦を展開し、上杉軍を撤退に追い込んだ。さらに1569(永禄12)年には、甲斐の武田信玄が小田原城に攻め寄せたが、この際も城の堅牢な守りの前に武田軍は力攻めを諦めて撤退している。
戦国最強と謳われた上杉・武田の両軍を退けた実績は、後北条氏の権威を大いに高め、彼らが独自の領国支配システム(目安状の制定や貫高制の確立など)を関東一円に行き渡らせるための強力な軍事的・心理的基盤となった。
豊臣秀吉の小田原攻めと開城
関東に盤石な独立王国を築き上げた後北条氏であったが、天下統一を推し進める豊臣秀吉との対立は避けられなかった。1590(天正18)年、秀吉は後北条氏が真田氏の領地(名胡桃城)を不法に奪ったことを口実に、全国の大名に動員令を発した(小田原征伐)。
秀吉軍は水陸合わせて約21万という前代未聞の大軍で小田原城を完全包囲し、強固な兵糧攻めを行った。さらに、城を見下ろす笠懸山に突如として総石垣の石垣山一夜城を築き上げ、圧倒的な経済力と動員力を見せつけた。後北条氏の首脳陣は城内で連日会議を開いたが結論が出ず、これが現在でも「長引いて結論の出ない会議」を意味する「小田原評定」の語源となっている。最終的に北条氏政・氏直父子は抗戦を断念して開城し、ここに戦国大名としての後北条氏は滅亡した。この小田原開城をもって、秀吉の全国統一は実質的な完成を見たのである。
江戸時代の位置づけとその後
後北条氏の滅亡後、関東には徳川家康が移封され、小田原城には家康の重臣である大久保忠世が城主として入った。江戸時代を通じて、小田原城は東海道の重要な宿場町を抱え、箱根の関所を控える「江戸の西の防衛拠点」として譜代大名(大久保氏や稲葉氏など)によって治められた。中世の広大な総構は縮小されたものの、近世城郭として石垣や天守が新しく整備された。
1871(明治4)年の廃藩置県にともなって小田原城は廃城となり、多くの建造物が解体された。しかし昭和以降に天守閣や各門が復興され、現在では中世から近世にかけての日本の城郭の変遷を知る上で、極めて重要な史跡となっている。