小田原
【概説】
相模国(現在の神奈川県小田原市)に位置する地名。戦国時代に北条早雲が奪取して以降、後北条氏5代の本拠地として栄えた関東最大の城下町である。難攻不落の要塞として知られ、豊臣秀吉の小田原攻めで落城するまで、東国の政治・経済・軍事の中心として繁栄した。
関東支配の拠点としての成立
小田原は古くから東海道の交通の要衝であったが、室町時代中期までは相模国の国人・大森氏の居城が存在するにとどまっていた。明応4年(1495年)頃、駿河国から進出した伊勢宗瑞(北条早雲)が計略を用いて大森氏から小田原城を奪取した。その後、第2代当主である北条氏綱の時代に本格的な城下町としての整備が開始され、後北条氏による関東支配の政治的・軍事的な拠点として位置づけられるようになった。
後北条氏の領国経営と城下町の発展
後北条氏は、氏綱から氏康、氏政、氏直に至る5代約100年にわたり、小田原を本拠地として関東一円に版図を拡大していった。その領国経営は極めて合理的かつ先進的であった。小田原には各地から職人や商人が集められて町割りが行われ、伝馬制の整備や各種の特権付与によって流通・経済活動が手厚く保護された。その結果として小田原は、関東各地から人や物資が集積する東国最大の巨大都市へと成長を遂げたのである。
難攻不落の要塞と「総構」の構築
政治・経済の中心であると同時に、小田原は極めて防御力の高い軍事要塞でもあった。永禄4年(1561年)の上杉謙信、永禄12年(1569年)の武田信玄という戦国屈指の武将たちによる大規模な侵攻を受けた際にも、小田原城は籠城戦の末にこれを退けている。さらに、天下統一を進める豊臣秀吉との対立が決定的となると、後北条氏は小田原城の防備をかつてない規模で強化した。城の周囲だけでなく、広大な城下町全体を土塁と空堀で囲い込む全長約9kmにも及ぶ総構(そうがまえ)を構築し、都市そのものを巨大な要塞へと変貌させたのである。
豊臣秀吉の小田原攻めとその後
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は約20万という圧倒的な大軍を率いて小田原を包囲した(小田原攻め)。秀吉は力攻めを避け、石垣山一夜城を築くなどして水陸から完全な兵糧攻めを行った。籠城する後北条氏陣営では連日対応が協議されたが、意見がまとまらず、この故事から長引いて結論の出ない会議を「小田原評定」と呼ぶようになった。約3ヶ月の籠城の末、北条氏直は降伏・開城し、戦国大名としての後北条氏は滅亡した。その後、小田原を含む関東には徳川家康が移封され、江戸時代を通じて小田原は東海道屈指の宿場町および譜代大名の城下町として、引き続き重要な役割を担うこととなった。