上杉景勝

豊臣政権下で越後から会津120万石に移封されて五大老に加わり、のちに徳川家康に反旗を翻した大名は誰か?
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★★★

上杉景勝 (うえすぎかげかつ)

1556〜1623

【概説】
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名で、豊臣政権下の五大老の一人。上杉謙信の跡を継いで越後を支配し、のちに会津120万石へ移封されたが、徳川家康との対立から会津征伐を招き、関ヶ原の戦いの引き金となった。戦後は出羽国米沢藩の初代藩主として存続を図った。

謙信の死と「御館の乱」による家督継承

上杉景勝は1556年、越後国の上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれた。母は上杉謙信の姉である仙桃院であり、後に伯父である謙信の養子となって上杉氏の一門に迎えられた。1578年に謙信が後継者を指名しないまま急死すると、同じく謙信の養子となっていた北条氏康の七男・上杉景虎との間で凄惨な家督争いである御館の乱(おたてのらん)が勃発した。景勝は春日山城の本丸を占拠し、武田勝頼との同盟(甲越同盟)を結んで外部からの介入を封じるなどの外交的・軍事的優位を保ち、翌年に景虎を自刃に追い込んで上杉家の単独当主となった。しかし、この内乱によって越後国内は深刻な疲弊を招き、さらに織田信長の配下である柴田勝家らによる北陸方面からの猛攻を受けるなど、家督相続直後の景勝は存亡の危機に立たされた。

豊臣政権への臣従と五大老への列座

1582年の本能寺の変によって織田信長が横死したことで、景勝は辛くも窮地を脱した。その後は台頭する羽柴(豊臣)秀吉と結び、反徳川家康の陣営として連携を図った。1586年には自ら上洛して秀吉に臣従を誓い、越後などの所領を安堵されるとともに、佐渡や出羽庄内地方の平定を認められて領国を拡大した。景勝は豊臣政権下において、北条氏の小田原征伐や朝鮮出兵(文禄・慶長の役)でも軍功を挙げ、政権内での確固たる地位を築いた。その結果、1597年に小早川隆景が死去すると、その後任として豊臣政権の最高首脳陣である五大老の一人に抜擢され、徳川家康や前田利家らと肩を並べる存在となった。

会津移封と「直江状」による関ヶ原の戦いの誘発

1598年、秀吉の命により、景勝は父祖の地である越後から会津120万石へと大規模な国替え(移封)を命じられた。これは、関東の徳川家康や東北の伊達政宗らを牽制・監視するための重要な防波堤としての役割を期待されたものであった。同年秀吉が死去すると、五大老筆頭の家康が専横を強め、豊臣政権内部の対立が激化する。領国の防備固めのために城郭改修や道橋整備を進めていた景勝に対し、家康は謀反の疑いをかけて上洛を要求した。これに対して景勝の重臣・直江兼続が家康を痛烈に批判する書状(いわゆる直江状)を送りつけたことで両者の決裂は決定的となった。1600年、家康は諸大名を率いて大軍を会津へと向かわせた(会津征伐)。この家康の出兵の隙を突き、上方で石田三成が挙兵に踏み切ったことで、日本全国を二分する関ヶ原の戦いへと発展することとなる。

関ヶ原の敗北と米沢藩の成立

三成の挙兵を知った家康が軍を西へ転じた後、景勝は家康の背後を追撃することはせず、東北地方において東軍に属した最上義光や伊達政宗と激しい戦闘を繰り広げた(慶長出羽合戦)。しかし、関ヶ原の本戦において西軍がわずか1日で壊滅したとの報を受けると、自軍を撤退させざるを得なくなった。翌1601年、景勝は家康に降伏して謝罪した結果、上杉家そのものの改易は免れたものの、出羽国米沢30万石へと大幅に減封された。以降、景勝は米沢藩の初代藩主として、大坂の陣には徳川方として参戦して武功を挙げるなど、江戸幕府への忠誠を示しながら家名の存続に尽力した。かつての120万石から四分の一に縮小された所領に越後・会津時代からの多数の家臣を抱えることとなり、米沢藩は当初から深刻な財政難を抱えることとなったが、景勝と直江兼続の統治によって藩政の基礎が築かれ、名門・上杉家は幕末まで存続することとなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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