征夷大将軍
【概説】
古代において、東北地方の蝦夷を征討するために朝廷が任命した臨時の最高司令官。源頼朝がこの官職に就いて以降は、鎌倉・室町・江戸と続く武家政権(幕府)の首長を示す称号として定着し、日本の歴史において極めて重要な役割を果たした。
蝦夷征討と令外官としての創設
律令制下の平安時代初期において、東北地方の蝦夷(えみし)を服従させることは朝廷にとって最大の政治・軍事的課題であった。当初は「鎮東将軍」や「持節征夷将軍」などの名称が用いられていたが、延暦13年(794年)に大伴弟麻呂が任じられたのが「征夷大将軍」の初見とされる。最も著名なのは延暦16年(797年)に任命された坂上田村麻呂であり、彼は蝦夷の族長である阿弖流為(アテルイ)を帰順させ、東北地方における朝廷の支配領域を大きく拡大した。この時代の征夷大将軍は、あくまで大規模な軍事行動の際にのみ任命される臨時の令外官(りょうげのかん)であり、遠征の終了とともにその任を解かれる性質のものであった。その後、弘仁2年(811年)の文室綿麻呂を最後に、約400年にわたって任命されることはなかった。
源頼朝の任官と武家政権への転換
長く歴史から姿を消していたこの称号が再び脚光を浴びるのは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてである。平氏政権を打倒した源頼朝は、東国における自らの支配権を正当化するため、朝廷に対して強力な権威を求めた。建久3年(1192年)、後白河法皇の死後に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。頼朝がこの官職を強く望んだ理由としては、かつて坂上田村麻呂が東国・奥州を平定したという歴史的記憶を利用し、自らの東国支配および奥州藤原氏討伐の大義名分とするためであったと考えられている。これにより、征夷大将軍は単なる臨時の討伐軍司令官から、武士を統率し全国の軍事・警察権を掌握する武家政権の首長へとその意味合いを大きく変貌させた。以降、征夷大将軍の主導する政府は「幕府」と呼ばれるようになる。
幕府と朝廷の「権威と権力」の二重構造
征夷大将軍が武家の棟梁の称号として定着したことで、日本の中近世における独特の政治体制が形成された。将軍は全国の武士を統御し、実質的な国家の支配権(権力)を握っていたが、その地位はあくまで天皇から任命される(将軍宣下)という形式をとっていた。つまり、天皇(朝廷)が保持する絶対的な「権威」によって、将軍の「権力」が正当化されるという二重構造である。足利尊氏が開いた室町幕府、徳川家康が開いた江戸幕府においてもこの関係性は踏襲された。武家側は自らの正統性を保つために朝廷を保護・統制し、朝廷側は実権を失いながらも伝統的な権威の源泉として存続するという、日本独自の政治バランスが長きにわたって保たれることとなった。
称号の神格化と終焉
江戸時代に入ると、徳川家康をはじめとする将軍の権威は絶大なものとなり、諸大名に対する圧倒的な主従関係の頂点に君臨した。また、将軍職は源氏の血を引く者(あるいはその名跡を継ぐ者)が就くという一種の不文律も形成され、武家社会における最高名誉としての神格化が進んだ。しかし、19世紀中頃の幕末期になると、黒船来航をはじめとする外圧や国内の政治的混乱に対し、幕府は有効な対応をとれずその権威は急速に失墜していく。慶応3年(1867年)、第15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上する大政奉還を行い、同年の王政復古の大号令によって征夷大将軍の職は正式に廃止された。平安時代の蝦夷征討に端を発し、およそ700年にわたり日本の政治権力の象徴であった称号は、ここにその歴史的役割を終えたのである。