菩提僊那 (ぼだいせんな)
【概説】
奈良時代にインドから来日し、東大寺大仏開眼供養の導師を務めた渡来僧。聖武天皇の悲願であった大仏造立の総仕上げを行い、天平文化の国際性を象徴する人物である。
唐を経由した来日と鎮護国家政策
菩提僊那は南インドのバラモン階級の出身とされる。仏法を求めて唐へ渡り、霊山として名高い五台山で修行を行っていた。当時、唐に留学していた日本の僧である普照や栄叡らから熱心な勧誘を受け、天平8年(736年)に遣唐副使・中臣名代の船に同乗して来日した。この時、唐の学僧である道璿や、林邑(現在のベトナム)の僧である仏哲らも同行している。
当時の日本は、聖武天皇のもとで仏教による国家の安定(鎮護国家)を目指していた。平城京に迎えられた菩提僊那は、大安寺を拠点として華厳経などの経典を講じ、日本の高僧である行基らとも深く交流して、黎明期の日本仏教界に多大な刺激を与えた。
東大寺大仏開眼供養と国際的儀式
菩提僊那の歴史的役割が最高潮に達したのが、天平勝宝4年(752年)4月9日に挙行された東大寺盧舎那仏(大仏)の開眼供養会である。この国家的一大事業において、菩提僊那は仏像に魂を吹き込むための「開眼導師」という大役を任された。
当日は、聖武太上天皇や光明皇太后、孝謙天皇をはじめ、文武百官や数万人の参列者が集まった。菩提僊那は大仏の目に筆を入れ、五色の紐で結ばれた筆を通して、参列者一同が開眼の瞬間を共有したと伝えられる。この儀式は、日本が東アジアの仏教文明圏の一翼を担う「先進国」となったことを、内外に知らしめる象徴的なイベントであった。
天平文化に与えた国際的影響
菩提僊那の来日は、日本人に仏教の源流の地である「天竺(インド)」への憧憬を抱かせるとともに、有形無形の文化的影響をもたらした。大仏開眼供養に際しては、同行した仏哲が伝えた「林邑楽(ベトナム起源の舞楽)」が演奏され、これが後の日本の雅楽の発展に決定的な影響を与えたとされる。
菩提僊那は天平宝字4年(760年)に大安寺で示寂し、登美山(現在の霊山寺)に葬られた。彼の存在は、奈良時代の日本が唐一辺倒の文化享受にとどまらず、インドや東南アジアまで繋がる広大なシルクロードの終着点として、極めてグローバルな文化(天平文化)を展開していたことを如実に示している。