島津義弘 (しまづよしひろ)
【概説】
薩摩国の戦国大名であり、島津氏の九州制覇や豊臣政権下での軍役を支えた屈指の猛将。文禄・慶長の役における圧倒的な武功や、関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」と呼ばれる敵中突破の退却劇で広く知られる。優れた軍事指揮官でありながら、戦後は粘り強い外交交渉によって領土を守り抜き、近世薩摩藩の礎を築いた。
島津四兄弟の要と九州統一戦
島津義弘は、島津貴久の次男として生まれた。島津氏は長男の義久、次男の義弘、三男の歳久、四男の家久という「島津四兄弟」の固い結束のもと、九州南部から急速に勢力を拡大していった。その中で義弘は実戦部隊の指揮官として活躍し、島津氏のお家芸である、囮を用いて敵を包囲殲滅する「釣り野伏せ」の戦法を駆使して各地で勝利を収めた。
1572年の木崎原の戦いでは、圧倒的な兵力差があった日向国の伊東氏を破り、1578年の耳川の戦いでは豊後国の大友宗麟の軍勢に大打撃を与えた。義弘ら兄弟の活躍により、島津氏は一時、筑前・筑後の一部を除く九州のほぼ全土を支配下に置くことに成功した。しかし、これに危機感を抱いた大友氏の要請によって豊臣秀吉が介入し、1587年の九州征伐をもって島津氏は豊臣政権に臣従することとなった。
朝鮮出兵での「鬼石曼子」の猛威
豊臣政権下における義弘は、兄の義久に代わって事実上の島津家代表として豊臣秀吉への奉公に努めた。秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)には、島津軍を率いて参戦。特に1598年の泗川(しせん)の戦いにおいては、わずか数千の兵力で数万(一説には20万ともされる)の明・朝鮮連合軍を撃破するという、世界軍事史上でも類を見ない大勝利を収めた。
この凄まじい戦闘力から、義弘は敵陣営より「鬼石曼子(グイシーマンズ/鬼島津の意)」と恐れられ、その武名は日本国内のみならず、明や朝鮮にまで轟くこととなった。この朝鮮出兵での経験と高い軍事力は、のちの関ヶ原の戦いや、江戸幕府成立後における島津氏の独自性を維持する大きな背景となった。
関ヶ原の戦いと奇跡の「敵中突破」
1600年の関ヶ原の戦いにおいて、義弘は不本意ながらも西軍に属して参戦した。しかし、西軍の主導者である石田三成らとの連携不足から、島津軍は戦場において不戦の立場をとり続けた。やがて小早川秀秋の裏切りなどにより西軍の敗北が決定的となると、四方を東軍に囲まれた義弘は前代未聞の決断を下す。それは、退却する際に後方へ逃げるのではなく、前方にある徳川家康の本陣に向けて正面突破を図る「島津の退き口(敵中突破)」であった。
義弘は身代わりとなる家臣を次々と残して敵を足止めする「捨て奸(すてがまり)」という凄惨な戦法を用い、多くの将兵を失いながらも、東軍の猛追を振り切って伊勢路へと脱出。大阪から海路で薩摩へと生還した。戦後、徳川家康に対して義弘は、関ヶ原での行動は不本意なものであったと主張し、徹底抗戦の構えを見せつつ粘り強い外交交渉を展開した。その結果、徳川氏も島津氏との全面対決を避け、異例となる「本領安堵(薩摩・大隅などの領地をそのまま安堵されること)」を勝ち取った。これにより、薩摩藩は外様大名の雄として幕末まで独自の勢力を保ち続けることとなった。